私淑する高島俊男先生の『お言葉ですが…②「週刊文春」の怪』(文春文庫)を読んだ。言葉にまつわるエッセイ集である。そのなかに「『すべからく』の運命」という随想がある。
「すべからく」
こんな言葉をふだん使う人は稀だろう。「すべからく」を辞書で引くと例文がある。
「学生はすべからく勉強すべし」
「すべからく」は「べし」をともなう。高島先生はこれを「変な日本語」だと述べている。どこが変なのか。考えたこともなかった。高島先生の説明はこうだ。
「すべからく」は「須」という漢語を二度訓読みして日本で生まれた。「須」は英語の ought to にあたる助動詞で、あとに動詞をともなって「何々せねばならぬ」という意味を表す。これを日本人は「すべからく……すべし」と二度読みした。たとえば漢語で「須自経営」というのを、「すべからく自ら経営すべし」と読んだ。これは非常に珍しい語法だそうである。同じ言葉を二度繰り返しているからだ。言ってみれば、「恐らく……と恐れる」とか、「望むなら……を望む」などと言っているに等しいのである。
「すべからく」とくれば「べし」で終わる。このように文末を予告する言葉を高島先生は〈予告語〉と命名している。
日本語は文末まで行かないと肯定文だか否定文だか分からない。「彼は正直な人物……」で始まる文は、「である」「ではない」まで読まないと、どっちだか分からない。こういうときに便利なのが〈予告語〉だ。
「決して」
この言葉が現れれば、文末には打ち消しの言葉がくる。「おしまいにひっくり返しますよ」というわけだ。
「彼女は決して嘘をつかない」
予告どおり、「つかない」と否定している。では予告を間違ったらどうなるか。
「彼女は決して大嘘つきである」
どっちなんだ。嘘をつくのか。つかないのか。どうも釈然としない。頭のなかが痒い。これはいただけない。だが人は誰でも間違いをしでかすものである。
「断じてそんなことはありえます」
どうやら強調しているようだが、どこかがおかしい。体がむずむずする。まるで骨が脱臼した感じだ。言葉が脱臼しているのだ。
「貧乏だからといって必ずしも不幸です」
「必ずしも」は「ではない」とセットになるはずだ。なのに「です」とはなにごとか。ここでも言葉は脱臼している。
「到底助かります」
なぜ否定しないのだ。「到底」ときたら「ない」で終わらせるのが筋だろう。またしても脱臼である。
劇場で割れんばかりの拍手喝采が俳優に送られている。嵐のような拍手だ。
「まるで嵐のようです」
だがここにも脱臼の危険はある。
「まるで拍手です」
なにを言っているんだ。
「かろうじて最終電車に間に合わなかった」
いやだ。こんな言葉遣いはいやである。
「必ずや実業界で成功したざます」
言葉はいつなんどき脱臼するか分からない。
(2001.11.1)