冬が去り春になると、気になるのが牛だ。新聞を開けば「始まったか」と思い、テレビのニュースのスポーツコーナーを見れば「今年も牛が」と気にかかる。三月半ば、マスコミはこぞって、待ってましたとばかりに高らかに宣言する。
「プロ野球オープン戦」
牛にとってこれほど迷惑な行事があるだろうか。大の大人たちが、牛の皮の塊を放り投げる。木の棒で思い切りひっぱたく。飛んできた牛の皮の塊を、やはり牛の皮で受け取る。受け取りそこなうと、悔しさのあまり、牛の皮を地面に力いっぱい叩きつける。
牛である。牛の受難の季節の到来である。
オープン戦が終わる頃、牛はあらたな受難を迎える。
「春の選抜高校野球」
丸坊主の高校生たちが甲子園球場に集い、牛の皮を投げたりかっとばしたりして勝ち負けを競う。高校生だからといって甘くみてはいけない。彼らは金属の棒で牛の皮をひっぱたくのだ。金属の棒でひっぱたかれる生き物は、なぜか二つしかないことで知られている。
「親または牛」
金属の棒で親を殴り殺せば事件として報じられるが、牛の皮を殴っても事件にはならないのであった。なぜかといえば、それは「すでに死んでいる牛」の皮だからである。
「死んだ牛の皮を金属の棒で殴る」
死者に鞭打つとはこのことである。残酷にもほどがある。だがマスコミは高校生たちを諌めるどころか、「さわやか高校球児」などと持ち上げる。これは事実の隠蔽ではないか。野球は牛の犠牲によって成り立つスポーツだ。高校生の代表は選手宣誓をするが、一度たりとも牛について言及したことがない。そろそろ事実を事実として認めてはどうか。
「われわれ選手一同は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々、死んだ牛の皮にとどめをさします」
スタンドでは応援団が「かっとばせ!」の大合唱である。死してなおかっとばされる牛。だが牛の受難はこれだけではなかった。
「プロ野球ペナントレース開幕」
およそ半年にわたって、連日連夜、牛の皮が蹂躙される。牛は思うだろう。
「勘弁してくれよ」
勘弁してやりたいが、プロ野球選手たちは馬耳東風である。なかにはチームに牛の名前をつけている球団もあるほどだ。
「近鉄バッファローズ」
水牛である。どうしてそんなに牛が好きなのか。近鉄は強力な打撃力で知られる。
「いてまえ打線」
なにしろ「いてまえ」だ。牛の皮をみれば、いてもたってもいられない。つい、かっとばす。親のかたきとばかりにかっとばす。そんな彼らには別称がある。
「猛牛」
猛牛たちが、牛の皮をもてあそぶ。正気の沙汰ではない。狂っているとしか思えない。
「狂牛病」
病気だ。狂った牛が牛を苛める病気である。
狂牛病の牛が牛の皮を投げる。狂牛病の牛が牛の皮を棒で殴る。牛の皮が宙に舞う。
「竜と虎と巨人が牛を」
牛はつくづく気の毒である。
(2002.3.28)