夕空の法則

暗闇

  正月の新聞の社会面の退屈さはどうにかならないものか。

  「餅をのどにつまらせて死亡  四人」

  毎年おなじことの繰り返しだ。繰り返しといっても、毎回おなじ人が餅をのどにつまらせて死んでいるわけではなく、もしそんな人がいたら、家族はたまったものではないだろう。

  「おじいちゃんったら、また?」

  ふだんから社会面は犯罪や死亡の記事ばかりで、このことから、新聞社にとって社会とは「悪」と「不幸」であるということがわかる。しかも今は正月だ。初春で賀正で頌春だ。おめでたいこの時期、いちばん人気の不幸が「死」であることはわかるが、だからといって、「餅をのどにつまらせる」ことをいつまでも特権的に扱うのはどうなんだ。正月だから餅、というのはあまりにも安易だし、退屈さがそこから生じているのは明らかだ。

  だから批判の矛先をつい新聞記者に向けてしまいがちだが、考えてみると餅も悪い。大きさといい程よい弾力性といい、喉につまらせるのにもってこいときている。おせち料理の歴史に疎いのでよく知らないが、雑煮は、喉につまりやすい餅を飲み込みやすくするための装置ではないだろうか。だとすれば、雑煮が開発されるまえは餅による窒息死が絶えなかった。正月も一皮むけば窒息死という暗闇が待ち受けている。そして暗闇がこわいのは、その「深さ」がどれくらいあるのか見定められないからで、ひょっとするととんでもないものがそこにひそんでいるかもしれない。

  「餅を鼻につまらせて死亡」

  きっといる。まちがいなくいる。お屠蘇の勢いでつい鼻に押し込んでしまったのがあだになった。だが、餅は鼻に入るのか。そんなに小さい餅はないはずだから、この酔っ払いはごていねいにも餅を小さくちぎったはずである。周りに人がいれば、やめさせたにちがいない。餅は鼻につめる大きさにちぎって食べるものではないからだ。おそらくひとり暮らしだ。お屠蘇を酌み交わす人はいない。年賀状は二十年近く書いていない。四畳半一間のちゃぶ台で、ひとり、餅を食う。

  「ちくしょう」

  ひとりさびしく正月を迎える人は大勢いる。そして、人はひとりになると、なぜかとんでもないことをしでかしてしまいがちだ。長電話が終わったら手にしていたメモ帳がずたずたになっていたりして、「なにやってるんだおれは」と愕然とする。

  この酔っ払いはあわれだが、餅だからよかった。「黒豆を耳に」とか「数の子をへそに」というケースだってありえるから暗闇の「深さ」は底知れない。「おでんを頭に」になると、正月からいったいなにをやっているのか、まるでわからない。わからないから、おそろしい。

(2003.1.8)