朝刊を読んでいたら旅行会社の広告が目にとまった。
格安の海外渡航券で有名な会社である。宣伝コピーの字が躍る。
「今だからできる価格!添乗員と巡る○○○のヨーロッパ」
○○○はこの会社の名前だ。今回のお勧めツアーはスペインだという。広告の右隣に社員が書いたエッセイが載っている。
「情熱の国スペインの文化を体感」
ふたたびツアーの広告に目をやると、料金が載っている。
「スペイン9都市周遊8日間の旅 情熱価格 199,800円」
安い。こんなに安くていいのか。だがそんなことはどうでもよいのであった。
「情熱」
どういうわけか、スペインのことを話題にするとき、人はこの言葉を使う。「情熱」といえば「スペイン」だ。
「情熱の国ロシア」
こんな言い回しは聞いたことがない。
「情熱の国バチカン市国」
ローマ法王がサンバを踊る。どんな国だ。
誰が言い出したのかはわからないが、とにかくスペインといえば情熱の国ということになっている。だが、スペインと情熱の関係を精緻に分析した人ならわかっている。サルバドール・デ・マダリアーガというスペイン人の評論家である。著書『情熱の構造 イギリス人、フランス人、スペイン人』によると、イギリス人は行動、フランス人は思考、スペイン人は情熱で特徴づけられるという。そして彼の言葉で有名なのはこれだ。
「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える」
あまりにも短絡的な暴論だという向きもあろう。だが箴言というものはおうおうにして極論である。
マダリアーガによれば、イギリス人紳士は歩きながら考えている。
「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ」
さすがはシェイクスピアを生んだお国柄だ。考えていることが高尚である。紳士は沈思黙考しながら歩く。歩行者用信号は赤だ。だが考えながら歩いているので目に入らない。車に轢かれる。
「即死」
なにをやっているんだ。ちょっとは周りを見たらどうだ。
フランス人はどうだろう。パリの下町のご夫人が夕食の献立に頭を悩ませている。
「今夜は何にしようかしら」
考えている。
「牛肉とレンズ豆のテリーヌにしましょう」
決まった。するとどうだ。
「走り出す」
なにしろフランス人だ。考えるとすかさず走り出す。わき目もふらず一目散に駆け出す。交差点にさしかかる。車にはねられる。
「即死」
なぜ走る。走ったばっかりに落とさなくてもいい命をむざむざ落とすことになる。
こうなると心配なのはスペイン人だ。彼らは、走ってしまってから考える。マドリードで一人暮らしをしている学生が町を脱兎の勢いで走りぬける。走りに走る。精も根も尽き果てて地面に倒れる。そのとき彼はどうするか。
「考える」
ここで初めて彼は考えるのだ。
「なんで走ってたんだろう」
自分でもわからない。走った理由がわからない。とにかく情熱に衝き動かされて走りに走った。どうしてだろう、なんでだろうとぼんやり考えているところに大型トラックが猛スピードで突っ込んでくる。
「即死」
イギリスとフランスとスペインの人口が減らないのは永遠の謎である。
(2001.12.21)