夕空の法則

週末

大地震と地下鉄サリン事件が立て続けに起きたころだったと思うが、世紀末的ということがよく言われた。

小学生をナイフで見境なく刺したり、首を切り落として校門に置くなどという犯罪が起きるたびに、世も末だと嘆く声があがり、終末論が一種のブームになった。

おそらくはこうした世間の空気をくみとってのことだろう、ハリウッドは『インディペンデンス・デイ』にはじまって『アルマゲドン』や『ディープ・インパクト』など、終末論をあおる映画を次々に製作し、すべてヒットした。ノストラダムスの予言を信じる人が欧米に較べて日本は格段に多いという世論調査が発表されたのもこの頃で、とにかく世間は「末」への恐れと期待に打ち震えていた。

それがどうだ。

アメリカで大規模なテロこそあったが、テロ自体はなにも珍しいことではない。結局、恐怖の大王は現れず、あいもかわらず退屈な日常はつづく。人々は、終末論のことなどすっかり忘れてしまったかのようだ。

思うに、終末論を「世紀末」に限定してしまったことが誤りだった。この世には、もっと恐ろしい「末」が存在する。なのに、なぜか人は知らぬ存ぜぬを決め込んできた。

「週末」

これほど恐ろしい「末」があるだろうか。なにしろ年に五十回以上やってくるのだ。

月曜日。重い足取りで職場に行けば仕事の山だ。パソコンがこれだけ普及しているのにデスクの書類が一向に減らないのが不思議でならない。キーボードを叩き、書類を作り、上司の印をもらい、得意先回りに出かけてぺこぺこし、ちょっと時間があいたからマンガ喫茶に飛び込み、何食わぬ顔で会社に戻って書類の仕上げだ。その間携帯電話は鳴りっぱなしである。

「もう勘弁してくれ」

つい愚痴がこぼれる。ふとカレンダーを見ればもう金曜だ。週末がすぐそこに迫っている。家に帰れば妻が言うだろう。

「休みの日くらい子供の相手してよ」

そんなこと言われたって書類が片づかないんだから無理だよと言いたいところをぐっとこらえる人が、今こそ問題にすべきなのが世紀末ではないことは明らかだ。

「週末論」

週末論こそ、真の終末論ではないか。いちばん頻度が高い「末」なのに、今まで誰ひとりとして週末を論じてこなかったのが不思議でしょうがない。なんとか数週間つづけて生き延びたとしても、安心するのは早い。

「月末」

ぶらぶらしている場合ではない。「なんとかしなくちゃな」と思う。だが、月末を論じるのはどうもむずかしい。

(2003.2.23)