立派な人になりたいと思ったのだった。
人生は一度きりである。どうせ生きるなら、立派な人として生きてみたい。だが、どうすれば立派な人になれるのかがわからない。そもそも、立派とはなんなのか。学研の『国語大辞典』で調べてみた。
「堂々として正しいようす。いかめしく見事なようす。また、技能・能力などがすぐれているようす」
堂々として正しい。なりたいものだ。ぜひなりたい。だがその方法がわからない。
「仁王立ちする」
堂々としている。男らしい。ますらおぶりだ。だが、単に堂々としていればいいかといえば、そうではなく、「堂々として」なおかつ「正しい」のが条件である。。
「通夜の席で仁王立ちする」
たしかに堂々とはしているが、通夜の席は場違いだろう。正しくない。
「交差点で仁王立ちする」
邪魔だ。はた迷惑である。たちまち渋滞になる。付近の住民が警察を呼ぶだろう。警察署で尋問を受ける。
「交差点で突っ立っているやつがあるか」
「やつ」呼ばわりされてはたまったものではない。ここはきっぱりと言い放つべきだ。
「立派な人になりたかったんで、つい」
これではだめだろう。いくら説明しても警官は耳を傾けてはくれまい。運が悪ければ精神鑑定されるかもしれない。やはり交差点は避けるべきだ。だが仁王立ちしなくてはいけない。どこかにないのか。仁王立ちするべきところはないのか。
「公園の砂場」
ここなら安全だ。だが、あたりを見ると、幼子とその母親たちがぐるりととりまいて、なにか囁いている。「なに、あの人」「気持ち悪い」「警察呼びましょうよ」などと言っている。公園の砂場は仁王立ちする場所として「正しい」ところではないようだ。正しい場所はどこにあるのか。
「地平線を見渡せる荒野のど真ん中」
ここだ。地平線を見渡せる荒野のど真ん中に男が仁王立ちしている。立派だ。立派だが、たまたまその姿を見かけた人は思うかもしれない。
「なにやってるんだ、あいつ」
これではただの「わけのわからない人」である。
どうやら仁王立ちでは立派な人にはなれそうもない。ならば次の手だ。
「いかめしく見事なようす」
さっそく試そう。
「歌舞伎の化粧と衣装で父兄参観」
豪華絢爛な衣装に顔は隈取でいかめしい。見事だ。だがその姿で父兄参観に臨んでいいのだろうか。周りがざわめく。どうも場違いらしい。ならば奥の手がある。
「技能・能力などがすぐれているようす」
誰もが思わず唸るような技術を身につければ立派な人になれるにちがいない。
「米粒に風景画を描く」
すごい技術だ。虫眼鏡で米粒を見ると、山川草木が色彩豊かに描かれている。木には鳥がとまっている。羽の色まで見える。川岸を旅人が杖をついて歩いているさままで見えるではないか。見事な腕前だ。だがこんな芸当はわたしにはない。そもそも、身につけたとして、はたしてこれで立派な人になれるのだろうか。
「ただの起用な人」
立派な人への道のりは遠い。
(2002.1.12)