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ピアニスト

フランス映画『真夜中のピアニスト』がセザール賞の八部門を獲得した。どこかで聞いたようなタイトルだ。ロマン・ポランスキーの『戦場のピアニスト』があったじゃないか。フランスとポーランドの合作でカンヌ映画祭のパルムドールである。その前には『海の上のピアニスト』があった。イタリア映画だ。

これだけピアニストが重なるのにはそれなりの理由があるのだろう。

「ヨーロッパ人はピアニストに弱い」

ピアニストというだけでヨーロッパ人は「ああ」とか「おお」と感慨をもよおす。海の上のピアニストだったりすればもう涙がとまらない。戦場と来た日には滂沱の涙だ。それに較べて「真夜中」はどうもインパクトが弱くはないか。そりゃ夜中に弾くやつだっているだろうさ。たいていは近所迷惑だ。『真夜中のピアニスト』が近所迷惑な人間の話なのかどうか、あらすじさえ知らないので何とも言えないが、ここで思い出さずにいられないのが去年ちょっとしたニュースになった、あの男のことだ。 

「ピアノマン」

イギリスの海岸で全身ずぶ濡れで発見された、正体不明のピアニストだ。ひとことも口をきかない。その代わりピアノの腕前がすごい。記憶喪失らしいが、どうも妙だと、すぐ人びとは気づいた。どこかのプロデューサーが仕掛けた新手のやらせではないかとか、そんな風説が出回ったが、結局は記憶喪失のふりをしていた精神病患者とわかり、つまりは噂どおりだった。がっかりである。 

だがこのニュースは重要な教訓を残したのであって、それは彼がピアニストではなくピアノマンと呼ばれた、ということである。ビリー・ジョエルに「ピアノマン」という歌があるが、それと関係があるのかないのか。あるような気がする。というのは、ピアニストよりピアノマンの方が俗っぽくてくだけた感じがするからであり、さらに近年のビリー・ジョエルがちょっとどうかと思うくらいにみっともなく太っているからである。だらしない肥満ぶりなのだ。 

やらせじゃないかと思ったら本当にやらせだった。だらしない男だ。ピアニストではないがピアノを弾く。だからピアノマン。ピアニストが正装ならピアノマンはカジュアルだ。ピアニストがバッキンガム宮殿ならピアノマンは浅草花やしきである。だから、エッセイストではないがエッセイを書くだらしない者はこう呼ばれるべきだ。

「エッセイマン」 

尊敬したいという気持ちになれない。なにしろエッセイマンだ。ふざけている。「ちょっとエッセイなんかやってます」とでも言いたげな、実にどうもいい加減なやつである。どんな風にいい加減か。とるに足らない日々の暮らしをつづる、ただそれだけでは、エッセイマンではない。 

「セーターのボタンがかけちがっている」

だらしない。ああ、なんてだらしがないんだ。ボタンがずれたまま、彼はそのことに気づかず、身辺雑記を書きなぐっているのだ。そして私は靴下を左右逆にはいてこれを書いている。

(2006年2月28日)

夕空の法則