翻訳について考えていたのだった。
翻訳といえば、外国の言葉を日本語に置き換える作業だというのが社会通念だろう。わたしも研究者のはしくれとして、少なからず翻訳の仕事をしており、その大半はスペイン語やフランス語や英語を日本語に翻訳するものなのだが、逆に、芥川賞作家の多和田葉子氏の書き下ろし戯曲をスペイン語に翻訳したこともある。
翻訳というものは、辞書に載っている言葉をそのまま書き写せばいいというものではない。たとえば「信じられなかった」という原文があったとする。そのまま「信じられなかった」という日本語を使っていいときもあるが、前後の文脈によっては、修辞的な技法が必要になってくることがあり、そういう場合は、「目を疑った」とか「首を捻った」「小首をかしげた」などと工夫を凝らすことになる。こんなふうに言葉を選ぶ作業を日々行いながら、いったい翻訳とは何なのかを考えるようになった。
『新明解国語辞典』で「翻訳」を調べると、こう定義されている。
「語られた(書いてある)ある言語や文章の内容を、他の言語で言い直すこと」
ここで重要なのは、あくまでも「他の言語」であり、「外国語」に限らないということである。同じ日本語でも東北弁と熊本弁ではまるで話が通じないから、別の言語とみなすことができる。あるいは時代だ。『源氏物語』の原文をすらすらと読める現代人はまずいない。だからこそ、谷崎潤一郎から橋本治に至るまで、さまざまな文学者が『源氏物語』の現代語訳を発表してきた。そのなかで今もっとも売れているのは瀬戸内寂聴のものだそうだ。
「桐壺」の原文の出だしはこうだ。
「いづれの御時にか、女御・更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」
コンピューターのシステムエンジニアがこれを読んだらどう反応するだろう。
「バージョンアップが必要です」
そうきたか。ならば瀬戸内寂聴の出番だ。現代語だ。
「いつの
これなら理解してもらえるだろうか。
「強制終了します」
寂聴の努力も水の泡だ。どうせ現代語訳にするなら、システムエンジニアにも理解できるようにするべきだろう。
「『ウィンドウズ桐壺』にようこそ。あなたは最高の『源氏物語』を手に入れました。もうこれで最高の『源氏物語』を簡単に追加できます。時代は記憶しません。エンペラーのワークステーションに女性アシスタントが常駐していました。女性アシスタントのレストルームに、ハイソササエティーではないアシスタントがいましたが、エンペラーのプロパティをクリックすると『最優先』と表示されます。詳細はオンラインマニュアルでご確認いただけます」
わたしは、今、頭痛がする。
(2002.4.15)