イメージに頼らずに人は行動したり思考したりできるだろうか。
「鈴木宗男」
この名前を聞いて何のイメージも浮かばない人は稀だろう。「大声」とか「金脈」とか「疑惑」などの言葉が思わず脳裏をよぎる。だが、なかには「レモンパイ」を思い浮かべる人がいるかも知れず、「ラベンダー畑」を想像する人がいないとも限らない。「抱かれたい男ナンバーワン」という人がいたって文句は言えない。何をイメージしようが、その人の勝手だからである。
アルゼンチン人の友人と話をしていたときのことだ。アルゼンチンでは「四月といえば秋」だと知って、はっとした。北半球とは季節が逆だから当たり前の話である。だが、長らく「四月といえば春」という環境で育ってきたので、「四月といえば秋」というイメージは咄嗟には浮かばなかった。
文化や時代によって、人がイメージするものは異なる。昔の日本人にとって「春」は「あけぼの」だった。今、春と聞いてすかさず「あけぼの」をイメージする人がどれくらいいるだろうか。「あけぼの」といえば横綱の曙だろう。そして曙といえば「太った人」であり、太った人といえば「森公美子」であり、森公美子といえば「大食い」であり、大食いといえばTVチャンピオンの「テレビ東京」であり、テレビ東京といえば「『演歌の花道』終わっちゃったな」であり、こうして春がいつの間にか「演歌の花道」になってしまって、わけが分からなるから、イメージにはおそろしい力がある。
だが、突飛な発想をするのはなにも現代人に限ったことではなく、昔の人もよく分からないイメージを思い浮かべていたということを教えてくれる書物がある。
「アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』大修館書店」
たとえば「たんぽぽ」はこう説明されている。
「その葉がにがいことから、キリストの受難」
思いも寄らない。たんぽぽといえば「綿毛をふーふー」じゃないのか。だが西欧ではキリストの受難だ。ふーふーしている場合ではないらしい。
「バター」という項目もある。
「バターをつくる仕事は危険で、たとえば女性がバターをつくると月経になったり、魔女や妖精が出てきて手を出したり、いろんなことが起こってバターの製造を邪魔する」
この想像力はいったい何なのだ。『イメージ・シンボル事典』は「ダチョウ」も説明している。
「忘れっぽさ、理解力の欠如を表す」
これを読んで、「そうか、忘れっぽい人はダチョウなのか」と安易に納得してはいけない。なぜなら『イメージ・シンボル事典』によれば、ダチョウにはほかにも「正義」「残酷さ」「暴飲暴食」「偽善」「持久力」「気品」などのイメージもあるからである。
だが、わたしがもっとも驚いたのは人名の「トム」のイメージだ。
「馬鹿者」
自分の名前がトムでなくてつくづくよかったと思う。
(2002.4.18)