人生にはさまざまな選択肢があり、人はそのつど、どの道を進むべきか選択を余儀なくされる。代表的なのは受験や就職だろう。結婚もそうだ。結婚相手を選ぶことも選択なら、「結婚しない」というのもひとつの選択である。なにを選ぶかは、その人の自由だ。今の自分がこうしてあるのも、さまざまな選択をした結果である。人生を左右するような選択以外に、人は毎日の生活で必ずなにかを選んでいる。朝起きると、その日なにを着るか悩む。そして選ぶ。昨日はスカートだったから今日はパンツにしましょう、二日続けて無地のネクタイだったから今日は柄物にしよう。食事だってそうだ。毎日同じものを食べていては飽きる。そこで選ぶことになる。
考えてみると、選べるということは幸福である。世界には「選べない人たち」がいるからだ。パンにしようかご飯にしようか悩める人は幸いである。ご飯はおろか、パンすらない人々がいるのだ。服もそうだ。服が一着しかない貧しい人がいる。
「選べるという幸福」
人はえてして選べるという幸福を忘れがちである。選べるという情況があたりまえだと思っている。だが、ときとして、わたしたちは選択の自由のありがたさを思い知らされることがある。
「選べない不幸」
たとえば盆栽だ。知人が自慢の盆栽を見せる。丹精込めて刈り込んだ盆栽を目の前にどんと出す。知人は満足げだ。盆栽を出されたとき、人はなにか言わなくてはならないことになっている。そのとき、選択肢はあるか。
「見事ですね」
これしかない。盆栽は褒めるしかない。盆栽を見て口にできる言葉はこれだけである。だがどうしてなのか。人生にはいくつもの選択肢があるはずだ。盆栽を見せられたときにも選択肢があっていいじゃないか。たとえばこう言ったらどうだろう。
「曲がってますね、枝」
盆栽の枝は曲がっている。というより、わざと曲げたのだ。こんなことを言われては知人は呆れるだろう。なにかないのか。もっと気の利いた言葉はないのか。
「まるで盆栽ですね」
おまえの目は節穴か。盆栽に決まっているじゃないか。
盆栽に選択肢はない。だが選択肢がないのは盆栽には限らない。
「赤ん坊」
知人に待望の赤ん坊が生まれる。お祝いの品をもって家を訪れると、夫婦がかわるがわる赤ん坊を抱いてあやしている。そのとき人は思わず口にする。
「かわいい」
赤ん坊ときたら「かわいい」だ。ただしこの場合には若干の選択肢がある。「目がお父さんにそっくり」「元気」などである。しかし人生の選択肢の豊かさに較べて、赤ん坊の選択肢はあまりにも少ない。豊かな人生を送るためにも選択肢を増やす必要がある。
「動くんですね」
そりゃ動くよ。なにしろ赤ん坊だ。動かなかったら、眠っているか、死んでいるのだ。
「人間だな」
選択肢を増やすのは難しい。
(2002.3.2)