パソコンを使っている人なら「フリーズ」という言葉を知っているだろう。突然画面が動かなくなる状態だ。どこをクリックしても画面は変わらない。真っ黒になることもある。「フリーズ」とは凍結という意味だ。画面が凍りつく。ずいぶん大袈裟な言い方である。氷が張っているわけではない。だが「フリーズ」である。そして私は、「フリーズ」するのはパソコンに限らないことに気がついた。それは何か。私の頭である。私の頭は、ときどき「フリーズ」する。それは、なにげない言葉を耳にしたときに、突然発生する。
友人と散歩していた。暑い夏の午後だった。二人とも汗みどろである。喫茶店で涼むことにした。店に入る。冷房が効いていて気持ちがいい。すると、椅子に座った友人がこう言った。
「いやあ、生き返ったよ」
私の頭は「フリーズ」した。死んでいたのか。さっきまで一緒に歩いていたのだ。死んでいた。そして生き返ったのだ。こういう場合、なんと応えたらよいのだろう。「おめでとう」。違うのではないか。「なに言ってるんだよ。死んでなかったよ」。これもおかしい。なにも言葉が浮かばない。「フリーズ」である。
知人が千葉県に引っ越し、家を新築した。若い夫婦には珍しく、純和風の二階建ての家だ。庭には立派な石がある。私は二人に言った。「立派な庭ですね」。すると夫がこう応えた。
「いえいえ、猫の額ですよ」
小さいという意味の比喩である。それは分かる。それにしても「猫」の「額」だ。こういう場合、どう対応したらいいのだろうか。比喩には比喩だ。「そんなことないですよ。シロナガスクジラの腹ですよ」。これはどうもまずいのではないか。だがほかにはなにも思い浮かばないのだ。フリーズした。
職場の同僚と会議をしていた。会議室には、中身が分からないダンボールの山が積まれていた。それがドアの付近にあり、出入りに邪魔だった。どけよう、という話になった。同僚のひとりが私に言った。
「ちょっと、手、貸してよ」
困った。「貸してよ」はいい。問題は「手」だ。「手」は貸せない。貸せるものか。返却してくれる保証はあるのか。そもそも「手」は貸すものではない。握ったり、洗ったり、こすったりするものである。私は返答に窮した。「返してくれますか」。こう言いたかったが、やめた。やめた方がよさそうに思えたのだ。
あるドラマを観ていた。上司役らしい女優が、ライバルらしき同僚にこう言った。
「あなたなんて、私の足許にも及ばないわよ」
どんな足なんだ、それは。誰にも近づけない足。立ち入り禁止の足。
と、ここまで書いてきたところで、私のパソコンが本当にフリーズしてしまった。うんともすんとも言わない。すると私の頭もフリーズした。「うんともすんとも言わない」。「うん」は分かる。「すん」とは何だ。そもそもパソコンは「うん」とは言わないものだ。「すん」に至ってはもってのほかである。
私はフリーズしたままだ。
(2001.10.10)