書斎の模様替えをした。
今までは西と東の壁に本棚を並べ、西側の本棚に向かう形で文机を置いていた。すると母が「南のベランダに向けて置けば眺めがよくていいんじゃない?」と提案してくれた。なるほどそうか。自宅はマンションの四階で、周りに高い建物はなく、ベランダの窓から町を見下ろせる。
さっそく文机をベランダに向けて配置した。座ってみる。目の前に町の景色が広がる。これはいい。なぜ今まで気がつかなかったのか。おのれの発想の貧困さが嘆かわしい。
ついでに本棚も整理した。本棚を整理すると、人はつい古い本や雑誌などを見つけてしまい、整理そっちのけで読んでしまうものである。少なくともわたしはそうだ。見つけてしまった。
蓮實重彦『映画からの解放』河合文化教育研究所
人はどう思っているか知らないが、わたしにとってこの本は名著である。久しぶりにぱらぱらとめくった。河合塾の学生たちを相手にした小津安二郎映画についての講演録である。だが、あるページで、大学論を話題にしている。
「大学といった所で何をやるかというと、いかに堂々と知ったかぶりができるかということにつきるわけです。真実に触れてもらったりすると、困るわけです(笑)。なぜ、それでは知ったかぶりが必要か?あるいは、知ったかぶりとは何か?ということなんです」
堂々と知ったかぶりができる、というのにも驚かされるが、なにより驚かされるのは「知ったかぶりとは何か」という問いだ。
「知ったかぶりとは何か」
こんなことを真面目に考えたことがある人がどれだけいるだろう。日本全国でも五人くらいしかいないんじゃないか。だが蓮實重彦は「知ったかぶりとは何か」を考えたのだった。そして、こう述べている。
「知ったかぶりというのは、ある一つの命題をめぐって、それが主語になった文章を完成することができるということです(笑)。その場合の文章に、二つあって、主語のあとにくるのが、形容詞ではダメだというものです。なぜ形容詞であるものがダメかというと、たとえばいまの映画を見て『どうでした?』『よかったあ』というのでは、知ったかぶりにならないのです。なぜかというと、形容詞でできるということは、ほとんどの場合、言語を必要としていないわけです」
ちょっとわかりにくい。続きを読もう。
「たとえば、母親からもう少しお乳をもらいたい赤ん坊がどういう顔をするかというと、不満な顔をしています。その不満だということを、人間は言葉によって『不満だ』というふうに表現するのです。ですからこれは、まだ幼児的な関係しかできていないので、これは知ったかぶりにはならない。知ったかぶりが、いつから始まるかというと、それを巡って一つの命題を完成できる時ということになります」
なんとなくわかってきた。要するに、賢くなるためには「知ったかぶり」が必要である。そして、「知ったかぶり」をするためには「命題」を完成させねばならず、その場合、主語と形容詞の組み合わせではまずい、と、こういうことらしい。
思い立ったが吉日だ。さっそく命題を完成させて賢くなろうではないか。
「日本は共産主義である」
そんな馬鹿な、と言わないでいただきたい。メキシコの文学者カルロス・フエンテスをはじめとして、多くの知識人がこう言っているのだ。日本以上に共産主義の理想を実現させた国家はほかにない。
「靴下は共食いする」
靴下は必ず片方がなくなる。共食いだ。共食いしているに決まっている。
ちょっぴり賢くなったような気がする。
(2002.2.2)