長野県の温泉に行った。
山の中腹にある、森に囲まれた鄙びた町の町営温泉である。竹下登が首相だったときの「ふるさと創生資金」によって設立されたらしい。名物は、百人以上がゆうに入れる大露天風呂である。たまたま平日の昼下がりに出かけたので客はまばらで、ほぼ貸しきり状態だった。晴天だが気温が低く、粉雪がひらひらと舞い散っていた。広大な露天風呂で雪見を楽しみながら羽を伸ばした。
温泉や銭湯など、広い湯船に入ると、人はつい衝動に駆られる。
「泳ぎたい」
海でもプールでもないのに、どういうわけか、体にむずむずとしたものを感じて、泳ぎたくなる。試しに子供を観察していただきたい。子供は温泉や銭湯で必ず泳ぐ。
「むずむずとした感じがする」
なぜか、むずむずとした感じがして、どうにも我慢ができず、つい泳いでしまう。たまに大人なのに泳ぐ人もいるが、そういう人は稀である。なぜなら、たいていの大人は、温泉や銭湯で泳ぐのは大人としてふさわしくない振る舞いだと心得ているからだ。だが大人も潜在意識では「むずむず」と感じ、泳ぎたいという欲望に駆られているにちがいない。事実、わたしは泳ぎたかった。だが泳がなかった。欲望をおさえる分別をわきまえているからだ。
露天風呂でのんびりくつろいでいたら、近くで入浴していた老人に「どこから来たの」と声をかけられた。話を聞いてみると、わたしが知人のひとりに似ていたから話しかけたという。すぐに人違いだということがわかった。それで会話が終わると思ったら、老人は、なんとなく世間話を始めた。そして話題はいつしか戦時中の話になった。老人が言った。
「今は不況だ不況だと騒いでいるがのお、戦時中は、なにもない、食うものがなにひとつない、サツマイモひとつ探すのに百キロ歩いたもんでよお。今のわが国は衣食住に不足はない。あんたのような若い人にはわからんかもしれんが、今の世の中をありがたいと思う気持ちを忘れてはいかんのお。『感謝感謝』『ありがとう』という気持ちが大切だなあ」
老人はさらに戦時中の苦しい体験を告白してから、「いやあ、つい長話しちゃってすまんのお」と詫びて立ち去った。どうやらこの老人は、若い人をみかけるとつい戦時中の話をしたがる人らしい。
「若い人をみると、むずむずして、戦時中の話をする老人」
やはり、むずむずするのだろう。だが老人の話は含蓄に富んでいて、聞いていて楽しかった。これがもし別の人だったら、まったくちがう状況になるだろう。
「男をみると、むずむずして、いきなり素っ裸になる女」
怖い。こんな女には近づきたくない。
「子供をみると、むずむずして、よだれをだらだらとたらす男」
おまえは人食い人種か。
「犬をみると、むずむずして、片っ端からびんたする鈴木課長40歳」
なにをやっているんだ。
むずむずには注意した方がいい。
(2002.1.25)