夕空の法則

られる

先日の夜、滅多にみないテレビをみていたら、皇太子妃の雅子さまが出産のため入院したというニュースを報じていた。

皇太子と雅子さまを乗せた黒塗りの車が、東宮御所を出て宮内庁病院にやってくる様子をカメラが移す。後部座席の窓を開けて雅子さまが沿道の国民ににこやかに手を振っていた。NHK「ニュース10」の森田美由紀アナウンサーが言った。

「雅子さまが手を振られています」

なんだか妙だ。どこかがおかしい。だが森田アナは続けていった。

「皇太子殿下も手を振られています」

画面には手を振っている皇太子と雅子さまが写っている。手を振っているのは皇太子と雅子さまだ。なのに「手を振られています」という。これでは、周りの人が皇太子と雅子さまに手を振っているようにも聞こえる。つまり文法でいえば受身である。いったいどっちなのだ。皇太子夫妻は手を振っているのか、それとも手を振られているのか。

「られる」

混乱の原因はこの助動詞だ。「られる」には「自発」「受け身」「可能」「尊敬」の四つの意味がある。

「このキノコは食べられます」

毒キノコではない。食べても大丈夫だということだろう。つまり「可能」だ。だが、「受身」としても読める。

「このキノコは佐々木さんに食べられます」

なんだか不思議な日本語だが、意味は通る。「佐々木さんに」があるから、「受身」であることがわかる。

「もう冬の気配が感じられます」

これは、自然にそうなるというさまを表す。すなわち「自発」だ。

「雅子さまは食べられます」

これはどう解釈すればよいのか。「可能」だとすれば、わたしたちは雅子さまを腹いっぱい食べてもいいことになる。だが皇太子妃を腹いっぱい食べる国民はいないだろう。人食い人種になってしまう。これはまずい。

では「受身」ではどうか。

「雅子さまは皇太子殿下に食べられます」

食われてしまった。皇太子殿下が妻を食う。どんな夫婦だ。おそろしい。

ここでようやく、この場合の「られる」は「尊敬」の意味だということがわかる。それにしても「られる」は厄介だ。意味が多すぎるのが原因である。最近は「ら抜き言葉」が流行っている。「可能」の意味を表すときに、「ら」を抜くのだ。

「食べれる」

食べることができる、という意味だ。これには「自発」「受身」「尊敬」の意味はない。「ら抜き」はなかなか便利である。でもまだ「自発」「受身」「尊敬」の区別はつかない。では「ら」意外の文字を抜けばいのではないだろうか。ためしに「自発」の意味で「れ」を抜いてみよう。

「もう冬の気配が感じらます」

どういう日本語だ。だがこうすれば「自発」だとわかる。「受身」は「られる」のままの方が無難だろう。となれば、残されるのは「尊敬」である。「る」を抜こう。

「雅子さまは食べられ」

だめだ。これでは「受身」と区別がつかない。なにかないか。いい方法はないか。

「『られる』を使わない」

そうだ。ちがう言葉にすればいいのだ。

「雅子さまは召し上がります」

どうだ。立派な日本語ではないか。では「手を振る」に「尊敬」の気持ちをこめるにはどうしたらよいのか。

「雅子さまが手をお振りあそばしていらっしゃいます」

 「雅子さまはご入院あそばされます」

 「雅子さまは無事ご出産あそばされました」

雅子さまはあそびっぱなしである。

(2001.12.1)