夕空の法則

本当の中国

テレビのコマーシャルを見ていたら、人気女優がすがすがしくこう言い放った。

「中国のきれいな人が飲んでいたのは、じつは緑茶でした」

ペットボトルの緑茶の宣伝だった。今ペットボトル業界の売れ筋商品といえばお茶であり、なかでも緑茶の人気はうなぎのぼりらしい。

缶入りのお茶が市民権を得たのは、二十年前のサントリーの烏龍茶だったと記憶する。そのとき日本人は初めて「ウーロン茶」という言葉を知り、「中国人はさすがだな。なにしろウーロン茶だからな」と感心した。発売されたばかりのウーロン茶を飲み、「ちょっぴり中国人」の気分を味わったものである。あれから二十年が経ち、「中国人といえばウーロン茶」という認識はすっかり定着したのであるが、その認識を普及させた張本人である発売元が、掌を返したように、今度は「じつは緑茶でした」と言っている。

「ではウーロン茶は何だったのか」

さんざんウーロン茶を売っておきながら、「じつは緑茶でした」はないじゃないか。だが、こういう論法は企業が得意とするところである。

「お客さまがクルマに求めていたのは、じつは居住性でした」

それまで燃費の良さばかりを売り文句にしていたメーカーが、自民党を脱退して共産党に入党するかのように、主義主張を変える。こういう広告を見るたびに、「燃費じゃなかったんですか」と問い詰めたい衝動にかられるのだが、仮に問い詰めたとして、メーカーは木で鼻をくくったような返事しかしないに決まっている。なぜなら、「お客さま」の要望は十人十色であるのに対し、企業側が応えられるのはそのごく一部にすぎないのだから、「じつは○○でした」というコピーはとどのつまり「○○を買え」と言っているだけのことだからである。

マンションだってそうだ。

マンションの広告で人が注目するのは「目白駅より徒歩9分」であり「130㎡のゆとりと高品質」であり「ガーデニングも楽しめるライトバルコニー」であり「戸建て感覚でお住まいいただける、独立性の高いメゾネットタイプ」である。だが、油断していると、不動産会社は企業特有の論法で消費者に襲いかかる危険性がある。

「お客さまがマンションに求めていたのは、じつは不便さでした」

新商品の価値は古い商品との差異にある。そして、あらゆる新商品は「快適さ」や「便利さ」を追求しているのだから、そこに差異をもちこむとなると、「不便さ」がキャッチフレーズとして生まれるのは火を見るよりも明らかである。厨房は薪だ。山奥であれば薪を探すのは楽だろうから、このマンションは当然都心に建てられる。不便だ。なんて不便なんだ。三十階建ての高層マンションだ。もちろんエレベーターはない。水は井戸である。三十階から階段を降り、井戸の水を汲み、また階段を登る。十三階にさしかかると疲れた足がもつれて転び、桶の水が流れてしまう。

「田園生活をお楽しみいただけます」

「お客さまの求めているもの」が誰にもわからないように、「本当の中国」も誰にもわからない。「中国人がもっとも飲んでいたものは、じつは水でした」という日が来るかも知れず、スーパーに「中国の水」が並ぶことだってありえるのである。

(2002.4.3)