忘年会の季節である。
飲めや歌えやの大騒ぎで、一年の苦労を忘れるために催す宴会だ。世間では年末になると忘年会を開くことになっている。だがわたしは幸いにもこの風習とは縁がない。幸いというのは、まず、からきしの下戸で酒が飲めないからであり、加えてカラオケという遊戯が大の苦手であり、そしてこれが最大の理由なのだが、忘年会だの新年会だのというお定まりの儀式にどうもなじめない性格だからである。
忘年会のシーズンが来ると必ず思う。
「忘れていいのか」
忘年会は「忘れること」が目的である。だが果たしてわたしたちは物事を忘れていいのだろうか
「何事も学ばなかった人たちには、何も忘れるべきものはありません」
フランスの作家、アンドレ・マルローの言葉である。学ばなかった人には忘れるべきものさえない。深い。思わず唸らされる。わたしは今年いったいなにを学んだだろう。わたしだけではない。世の中の人はなにを学んだだろうか。思えば今年はいろいろな出来事があった。小泉内閣組閣。アメリカの同時多発テロとアフガニスタン爆撃。狂牛病。アルゼンチンの経済危機。キケロは言う。
「記憶はあるゆる物事の宝であり、守護者なり」
さすがはキケロだ。言うことがちがう。「守護者なり」である。今わたしたちに必要なのはなにか。
「記憶すること」
浮かれ騒いで忘れている場合ではない。忘れてはいけないことがあるはずだ。記憶だ。今こそ記憶にとどめておくべきである。新たな世紀が始まった今年の出来事を、しっかり覚えておかなくてはなるまい。
「『FOCUS』廃刊」
それがどうした。どうでもいいじゃないか。新世紀だ。求めているのは二十一世紀にふさわしい出来事だ。
「SPEED解散」
たしかに彼女たちは三月末に解散した。だがもっと大切なことがあったはずである。
「藤田憲子離婚・芸能界復帰」
これが二十一世紀の幕開けを飾るニュースだろうか。藤田憲子が離婚しようが芸能界に復帰しようが、アメリカはアフガニスタン爆撃を続けるだろう。
「藤田憲子は元女優」
そんなことを知ってどうする。
「武豊・さとう珠緒熱愛?」
だからどうして芸能界の話題にこだわるんだ。こんな話で二十一世紀に幕を開けてもらっては困る。おまけに「?」である。なんとも宙ぶらりんである。
「野口五郎と三井ゆりゴールイン」
これほどどうでもいいニュースがほかにあろうか。しかも「ゴールイン」である。「ゴールイン」は勘弁してもらいたい。いかにも週刊誌的である。
「式を挙げたロタ島では周囲の人も照れるほどの熱烈なキス」
これと二十一世紀となんの関係があるというのか。
「夫婦茶碗には二人の名前が刻まれている」
おまえはどこのどいつだ。なぜそんなことを知っている。
「近所への散歩やお風呂の中でも手をつなぎっぱなし」
二十一世紀。前途多難である。
(2001.12.23)