郵便局に行った。
日本野鳥の会と、所属している学会の年会費を納めるためだ。正月休みが明けて最初の平日だったので、窓口は混雑していた。窓口は、郵便を扱うところがひとつと、振込みや為替を扱うのが二つしかない、小さな郵便局である。わたしは当然振込みの窓口に行った。カウンターに、整理券を発行する機械がある。デジタル表示に「8」とある。すでに8人が待っていたのだった。しかたなく、受取った整理券を手にして待つことにした。周りをみると、みな整理券を手に、じっと佇んで、自分の順番がくるのを待っている。
「順番を待つ」
人はいつ「順番を待つ」ことを覚えたのだろう。
太古の昔、人が猿からヒトになった頃は、「順番を待つ」などということは考えもしなかったはずだ。なにかがあると、わっと寄って、わあわあ言いながら、われ先に獲物に手を出したに違いない。手当たり次第、つかめるものだけをつかみ、多く取った者は喜び、少ししか取れなかったものは悲しんだだろう。だがある日、「順番を待つ」ことを発明した人が現れた。その人は言っただろう。
「いいから、待て」
だが、人々は、「待つ」というのがどういうことかわからない。発明者は教えただろう。
「だから、わっと寄らないで、みんなここにこんなふうに立って、な、そして、じっとしていろ」
人々はなにがなんだかわからない。発明者は説明を続ける。
「まずはおまえだ。おまえが取れ。そのかわり、ほんの少しだけ取れ」
言われた人はわけもわからぬまま、従っただろう。
「次はおまえだ。取れ。少しだけだぞ。いいな」
だが次の人は獲物の半分をごっそりさらってしまう。
「ばかものめ。少しだけだ。少しだけ取れ」
こうして、人々は順番に少しずつ取っていっただろう。するとどうだ。全員がほぼ同じ量の獲物を手に入れられたではないか。人々は呆気に取られ、そして歓喜の雄叫びを上げただろう。「順番を待つ」だけで、無駄な労力は省かれ、獲物が平等に分配される。
だが、「順番に待つ」ことが発明されると、新たな人種が生まれる。
「待てない人」
太古の原人だって待てなかったじゃないかと反論する人がいるかも知れない。だがそれは間違いである。なぜなら太古の原人たちは「待つ」ということを知らなかったのだ。「待つ」ことを知らない以上、「待てない」という行為はできない。「待つ」ことを覚えて、はじめて「待てない人」が現れるのである。
「順番を待つ」ことを覚えた人類は「待てない人」を誕生させてしまった。「待てない人」の子孫は多い。彼らは、ある場所に群がっていることを、人はつい忘れがちである。
「デパートのバーゲンセール会場」
ブランド品に群がるオバサンたちには人類の歴史が隠されている。だが本当のことをいえば、そんな歴史にわたしはちっとも興味はないのだった。
(2002.1.14)