三年後に四十歳になることに気づいたのだった
まるで実感はない。四十歳といえば不惑だ。「四十にして惑わず」。あれこれ戸惑っていられる歳ではない。人生に自信と誇りをもつべき時期である。だが不惑を前して、わたしは戸惑いっぱなしである。人生に自信も誇りもない。人はさまざまな欠落を抱えて生きており、それはしばしばコンプレックスとなるのだが、考えてみるとわたしはコンプレックスの塊であり、欠落だらけである。いちいち数え上げたら枚挙に遑がないが、なかでもとくに情けなくなるのは、記憶力の乏しさだ。
とにかく忘れっぽい。
前日食べたものが思い出せない。学生の顔と名前がなかなか覚えられない。ひとり暮らしなので親や妹とは別居しており、家族が会う機会は限られているのに、最後に妹と会ったのがいつなのか、さっぱり思い出せない。ひょっとして健忘症ではないかと心配して精神科医に相談したことがあるが、「あなたは健忘症ではありません」ときっぱり言われた。病気ではないと言われればふつうはほっとするものだが、病気でもないのに物忘れがひどいとなると、かえって不安になる。そんなこんなで、日々戸惑いっぱなしだ。
人より記憶力が劣っていることに気がついたのは中学生のときだった。そこで日記をつけはじめた。その日何をし、何を考え、何を食べたか、かたっぱしから書く。途中で何度か挫折したものの、この習慣は現在でも続いている。最初はタイプライターを使って英語で書いていた。二年間スペインに留学していたときはスペイン語で書いた。あとは日本語だ。十二年前からはパソコンで書いているので毎日の記録がデータベースになっている。最後に妹に会ったのがいつだったかは、パソコンで検索してようやく思い出すという始末だ。
いったい記憶力とはなんなのか。記憶のメカニズムとは何か。
四年前の東京新聞に哲学者の中村雄二郎が記憶に関するコラムを載せた。といっても、そんなことをわたしが覚えているわけはない。日記に書いておいただけのことである。記憶といえば今やコンピューターの独壇場と言えるが、コンピューターには物事を「よく思い出す」ということができない。これを「想起的記憶」という。また、与えられた多くの話の断片から物語を再生する力というのもコンピューターにはない。これは「エピソード記憶」というらしい。とくに「エピソード記憶」はアルツハイマーかどうかを確かめる心理テストに用いられるというのだが、わたしの興味を惹いたのは、「エピソード記憶」の実態ではなく、中村雄二郎の告白だった。
「私は若いときから、他人並みの記憶力がないことを苦にしていた」
わたしは驚き、そしてほっとした。中村雄二郎も悩んでいたのだ。哲学者だって物覚えが悪いのだ。そして、続きを読んで唖然とした。
「が、あるとき以来、その強迫観念から逃れることができた。一つには、デカルトが、やはり〈記憶力の弱さ〉を苦にし、その結果、記憶の連鎖にかわり論理の連鎖からなる〈方法〉を案出したことを知ったからである」
ここでいう〈方法〉とは言うまでもなく『方法論序説』である。近代哲学の嚆矢だ。あのデカルトも物覚えが悪かったのである。デカルトも悩んだのだろう。たとえば寝る前だ。
「歯、磨いたっけ」
朝は朝で悩む。朝食を食べた途端に悩む。
「朝ご飯、まだいただいていませんけど」
デカルトの苦悩は深い。
(2002.4.8)