文芸評論家の三浦雅士の近著『青春の終焉』(講談社)を読んでいた。
「青春」という概念を特権化したのは西欧ルネサンスであり、日本にも飛び火し、1960年代後半に急速に「青春」の価値が下落してゆく、その歴史を追った本である。その「はしがき」で三浦雅士にこんなことを教わった。
「青春も青年も英語ではユースだが、そのユースに青年という訳語が与えられたのは、一八八〇年、東京基督教徒青年会が発足した段階においてである。はじめヤング・メンの訳語として登場した青年という言葉は、一八八五年、富徳蘇峰が『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を上梓するにおよんで燎原の火のように日本全国を嘗めつくした」
明治時代にはヨーロッパの多くの言葉が日本語に翻訳された。英語を例にとると、baseballは「野球」、tenisは「庭球」だ。societyは「社会」という訳語を生んだ。informationの意味で「情報」という言葉を初めて使ったのは森鴎外だと言われている。
情報といえば、現代日本ではパソコンが欠かせない。だが「パソコン」は英語のpersonal computerをそのままカタカナ表記にし、略語にしたものだ。翻訳していない。明治の人なら翻訳しただろう。しかし現代日本人はなぜか翻訳しない。これでいいのだろうか。
そんな疑問を抱えていたら、ふと気がついた。
「中国人がいるじゃないか」
中国人は外来語をすべて漢字で表現する。なかにはコカコーラを「可口可楽」のように当て字にするものもあるが、たいていは翻訳だ。
「中国人のパソコン事情」
さっそく私は『日中パソコン辞典』というものに目を通してみた。
「メール」
今ではれっきとした日本語だ。だが中国人はこれを翻訳する。
「電子郵件」
威風堂々たる言葉ではないか。
「インターネット」はどうだろう。英語のもともとの意味は〈相互に関係している網〉だ。
「互聯網」
「聯」は「連」だから、互いに連絡している網だ。まさにインターネットである。では「パソコン」はどう呼んでいるのだろう。
「電脳」
電子の脳だ。まさにその通りである。思わず膝を打つ。ついでに「ノートパソコン」も調べてみる。
「筆記本電脳」
筆記本ときた。さすがは中国人だ。
ところでパソコンを使っていて気になるのは、ときどきわけの分からないエラー表示が出ることである。「エラー」。中国人はこれも翻訳する。
「錯誤」
そうきたか。意外に素直な翻訳だ。そしてパソコンでいちばん嫌なのは、画面がうんともすんとも言わなくなる時である。「フリーズする」という。「フリーズ」。中国人が翻訳する。
「死機」
機械が死ぬ。おそろしい。「死ぬ」という以上、それは今まで生きていたことになる。生きている電脳。不気味である。
この「夕空の法則」にはインターネットのアドレスがある。正確にはURLという。中国人の出番だ。
「統一資源定位器」
私の頭は死機した。
(2001.11.12)