うららかに晴れたある日、近所の森林公園に母と散歩に出かけた。中に植物園があり、池には鴨やサギ、カワウなどが大群をなして泳ぎ、大空を舞う。植物園中央には広大な芝生がある。ところどころが丘になっている。野球場がいくつもできるような広さだ。いちばん高い丘の頂上に敷物を敷いて、持参したお握りを母と一緒に食べた。
食べていると、芝生の向こうから、黄色い帽子をかぶった20人の幼稚園児が引率の先生に導かれてやってきた。黄色い帽子が可愛らしい。まるで小鳥の集団だ。園児たちは芝生に入ると、矢も盾もたまらず裸足になり、いっせいに駆け出した。芝生の丘に登る。ひとりの園児が手足を伸ばしてうつ伏せになり、斜面をごろごろと転がり始めた。すかさずほかの園児たちが真似をする。
「丘の斜面を園児たちがごろごろと転がる」
どうやら、子供というものは、放っておくと、芝生の斜面をごろごろと転がることになっているようだ。転がり終わりとまた丘に駆け上がり、ふたたび転がる。無我夢中だ。
しばらくすると、園児たちは、新たな転がり方を発明した。二人で両手をつなぎ、対面する形で腹ばいになる。そして同時に転がる。二人は手をつないでいるから、二人の体が一直線になり、細長い棒のように斜面を転がり落ちてゆく。
「二人転がり」
だが園児たちはこれだけでは満足しない。今度は引率の先生に群がって無理矢理倒し、先生を斜面から転がし始めた。先生はなすすべもなく、転がってゆく。
「先生転がし」
私はのどかな光景に見とれていた。そして気がついた。
「人には斜面を転がりたい欲望がある」
大人は子供じみた真似をしない分別があるから転がらないだけの話である。封印していた子供の心が甦ると、大人も転がる。事実、引率の先生も一緒に転がっている。もし子供の心を甦らせた人間国宝の陶芸家が芝生に入れば、やはり転がるに違いない。
「芝生の斜面を転がる人間国宝の陶芸家」
ろくろを回しながら斜面を転がる。さすがは陶芸家だ。幼稚園児には真似ができない。ノーベル文学賞作家も例外ではあるまい。
「芝生の斜面を転がる大江健三郎」
新作の小説を書きながら斜面を転がる。書斎で落ち着いて書けばよさそうなものだが、なにしろ広大な芝生の斜面だ。転がらずにはいられない。大江健三郎のファンたちもやってきて、寄ってたかって大江健三郎を倒し、斜面を転がす。
「大江健三郎転がし」
皿回しの芸人はどうか。
「皿を回しながら転がる」
なんて器用なんだ。皿を五枚回しながら、丘の斜面を転がっている。回しながら転がる。こんな芸当ができるのは皿回しの芸人くらいだろう。そしてこの人のファンは彼を転がす。
「皿回し転がし」
砲丸投げの選手にも童心というものはある。もちろん砲丸は片時たりとも手放さない。
「砲丸を次々と投げながら斜面を転がる」彼の行為はこう名づけることができる。
「投げ転がり」
そのうち「転がり」の名人が現れるだろう。
「食べ転がりで紫綬褒章」 「泣き転がりで免許皆伝」
芝生の斜面。恐ろしい欲望の喚起装置である。
(2001.11.14)