雑誌を読んでいた。
「わたしが繰り返し読む三冊」という特集記事があった。そのなかで、ある作家が夏目漱石の『坊つちやん』を挙げていた。漱石を挙げた作家はほかにもいた。
漱石である。永遠の作家だ。繰り返して読む人は多いにちがいない。わたしも小学生時代以来、ことあるごとに読んできた。だから驚かないが、その作家が『坊つちやん』を選んだ理由を読んでいささか驚いた。
人は誰でも抑鬱的になることがある。そういうときの特効薬が『坊つちやん』だというのである。わたしは長年抑鬱に苦しんでいる。そして漱石も読んできた。だがもっとも多く読んだのは『吾輩は猫である』だ。なぜか『坊つちやん』を再読した記憶がない。ひょっとすると小学生のときに読んだきりかもしれない。
さっそく本棚から岩波文庫版を手にとった。そして驚いた。薄い。本文はたった135ページしかない。それからタイトルだ。
『坊つちやん』
「坊っちゃん」ではない。「坊つちやん」だ。「つ」と「や」が大きい。これには気がつかなかった。
さっそく読み始めた。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」
いきなりこんな説明で始まる。無鉄砲という言葉がなんだかなつかしい。そのせいで損ばかりしているらしい。続きを読む。
「小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある」
子供というものは、つい二階から飛び降りたくなるものだ。その証拠に、わたしも、中学校の二階から飛び降りたことがある。冬の北海道の話だ。下は二メートル近く雪が積もっている。そこにざぶんと飛び込む。痛くも痒くもない。だが「坊つちやん」は雪のない地面に飛び込んだ。そして腰を抜かしたという。しかも一週間だ。
「小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかといったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた」
子供が腰を抜かしたというのに、この父親はなんだ。心配するどころか、「腰を抜かす奴があるか」と叱っている。まさに無鉄砲である。「坊つちやん」の返事もすごい。
「この次は抜かさずに飛んで見せます」
まるで師匠と弟子の会話である。
「坊つちやん」は両親と優等生の兄と清(きよ)というお手伝いさんと暮らしている。やがて母が死ぬ。残された父は「坊つちやん」が兄のような優等生でないことをこぼす。
「人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のようにいっていた」
まったくどんな父だ。顔を見るたびに「駄目だ」という。言われた方はたまったものではないだろう。「坊つちやん」が言う。
「何が駄目なんだか今に分らない」
そりゃわからなくて当然だ。なにしろ「駄目だ」である。
成長した「坊つちやん」は四国の松山の学校の数学の先生になる。「坊つちやん」は、いつもかわいがってくれた清のことが恋しくなる。そこで手紙を書く。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の屋敷に寐ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寐られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今に色々な事をかいてやる。さようなら」
どんな手紙だ。「今に色々な事をかいてやる。さようなら」である。
『坊つちやん』。わたしは笑いがとまらなかった。
(2002.1.3)