私は三十六歳である。三十六年間も生きていれば、誰だって、苦しいこと、悲しいことを乗り越えている。あんな辛いこともあった、こんな悲惨な目に遭った。人生山あり谷ありである。だからといって、なにも私はここで人生の悲哀について語りたいのではない。そうではなくて、「三十六歳」の人の幸せとはなにかを考えたいのだ。三十六歳。不惑まであと四年。そんな人の幸せとは何か。
「校則がない」
これである。三十六歳の人は校則を気にしないですむ。もちろん、夜間制高校などに通っている人もいるだろうが、ここでは例外とみなそう。ふつう三十六歳の人はもう「学校」と呼ばれるところには通っていない。そして、「学校」には「校則」というものがある。どんな社会にも掟は存在する。だが、「校則」という掟には、どうも「なんだかなあ」という理不尽さがつきまとっていなかっただろうか。思い出してほしい。とくに中学校だ。前髪の長さからスカートの丈など、事細かな規則があったはずだ。
私の手許に、全国のいくつかの中学校の校則を集めた本がある。なぜそんな本が存在し、それを私が所有しているのか。そんなことは今はどうでもよろしい。問題は本の中身だ。これがまた見事に「なんだかなあ」の速射砲なのである。たとえばこれだ。
「男女間で話す時は、なるべく3人以上で、2メートル以上離れてすること。連続し3分以上話すのは禁止」
私は獄中の暮らしというものを知らないが、これでは監獄に入れられているようなものではないか。考えただけで息が詰まる。だが「校則」の命令はとどまるところを知らない。
「授業中の小便、大便、嘔吐、出血はなるべく避ける」
いるのか。禁止されないと糞尿を垂れ流し、血まみれになる生徒がいるのか。
「異性の先生と話す時は20センチ以上の間隔をとる」
「歩幅は80センチ」
「用便は7分以内」
これらの掟の数字へのこだわりは一体なんなのだ。だが「校則」はこれでもかと言わんばかりに数字を押し付けてくる。
「異性の急所を10秒以上見続けてはいけない」
「異性の急所に5秒以上触れ続けてはいけない」(同性の急所も同様)
誰が時間を計るのだ。先生か。先生なのか。それとも学級委員長か。だがこれしきのことで驚いてはいけない。掟はまだまだ続く。
「異性の急所を1分以上想像、あるいは夢想してはいけない(成人は可)」
想像することまで禁止されてしまった。考えてもいけないのだ。「1分以内なら構わない」という理由がさっぱり分からない。謎である。だがこんなことで不思議がっていては「校則」の真実には到達できない。
「プールでふんどしを着用してはいけない」
なぜいけないんだ、と問い返してはいけない。なぜなら「校則」だからだ。掟なのだ。
「学校内で歌謡曲を歌ってはいけない。修学旅行では民謡以外歌ってはいけない」
髪型も当然掟の対象である。
「男子生徒を挑発するので、ポニーテールは禁止」
だが私が絶句したのは次の掟だ。
「登下校中、流氷に乗ってはいけない」
私は三十六歳である。今ほど幸せを実感したことはない。
(2001.10.21)