遠方から訪ねてきてくれた友人をスペイン料理屋に招待して晩餐を振舞った。
友人はスペイン料理を食べるのが初めてだった。スペイン料理といえばニンニクとオリーブオイルだ。最初は脂ぎった料理ばかり出てくるのではないかと心配していたらしいが、実際に食べてみると日本人の口に合うあっさりめの味付けで、どの料理もぺろりと平らげてくれた。ちなみに献立はこうだ。
サングリア(スペイン独特の赤ワインベースの食前酒)
スペイン北部産赤ワイン
ニンジンのサラダ
あん肝のマリネ
ニンニクと玉子のスープ(冬の定番料理)
タラとエジプト豆のポトフ
トルティーリャ(ジャガイモと玉ねぎのオムレツ)
魚介類のパエーリャ
クレマ・カタラナ(カタルーニャ地方のブリュレ)
カモミール茶
友人はすっかり感激し、一皿食べ終わるごとに、なんともいえない恍惚の表情を浮かべて、「おいしい」とぽつりと漏らす。招待した身にとって、これほど嬉しいことはない。招待した甲斐があった。わたしは幸せな気分を味わった。
すべての料理を食べ終えた友人は、満足げに紫煙をくゆらせながら言った。
「疲れが吹き飛びました」
誰だってご馳走を食べると体が元気になるものだ。ご馳走には不思議な力がある。
「ご馳走の魔力」
日本で接待という風習が廃れないのは、ご馳走の魔力のせいだろう。
接待係が宴席を整える。お得意さまの前に珍味佳肴が並ぶ。酒も欠かせない。お得意さまは相好を崩して、ご馳走に舌鼓を打ち、美酒に酔いしれる。おのずと会話も弾む。宴はたけなわだ。その瞬間、接待係がここぞとばかりに取引話を持ち出す。
「で、例の件ですが、よろしいでしょうか」
これほどのもてなしを受けて、誰が断れようか。
「あ、あれね。いいよ。もちろん、いいですよ」
契約成立である。「ご馳走の魔力」の前では、いかなる人もまな板の上の鯉である。書類を出されれば景気よくハンコを押すだろう。めでたしめでたしだ。
だがわたしが問題にしたいのは「ご馳走の魔力」とはなんの関係もないのである。
「疲れが吹き飛びました」
友人の言葉にはっとさせられたのだった。
「吹き飛ぶ」
「夢も希望も吹き飛んだ」とか「疑いの念が吹き飛ぶ」など、「吹き飛ぶ」を使う表現は多い。だがそもそもの意味は、「風に吹かれて物が飛ぶ」ということだ。
「疲れが風に吹かれて飛ぶ」
友人の疲れは風に吹かれて飛んだのだ。たしかにその日は寒風が吹きすさんでいた。それにしても気がつかなかったよ。いつの間に飛んでしまったのか。
思えば「飛ぶ」や「飛ばす」がつく言葉はほかにもある。
「読み飛ばす」
読んだ本を、飛ばす。本が宙に舞う。読み終わるたびに飛ばすから、家の中は滅茶苦茶である。
「友人を笑い飛ばす」
友人がなにか言う。するとどうだ。友人の胸倉をむんずとつかんで、思い切り遠くに投げ飛ばす。友人が地平線の彼方へ飛んでいく。
「売り飛ばす」
売れた途端に商品を放り投げる。品物が風に舞う。客は呆気にとられる。
「叱り飛ばす」
親が子供を叱り、子供を窓から放り投げる。一階ならまだいい。マンションの十二階なら悲劇だ。女性週刊誌が書き立てるだろう。
「子供を叱り飛ばして即死させた馬鹿っ母!」
叱り飛ばしたくないものである。
(2002.1.30)