夕空の法則

イエス

中古車を買い換えた。

今までは89年式のドイツのゴルフIIに乗っていた。ポンコツである。今度は94年式のゴルフIIIだ。念願の左ハンドルである。マニュアルが欲しかったのだが、なぜか日本とアメリカ市場ではオートマが主流で、見つからなかった。

ディーラーの応接室で買い替えの手続きをしているとき、店員が書類の準備をしているあいだ、手持ち無沙汰だったわたしは部屋の棚にある自動車関係の雑誌をぱらぱらとめくっていた。そして奇妙なことに気がついた。

「クルマ」

どの雑誌をみても「車」「自動車」ではなく「クルマ」と書かれている。発音は「くるま」だからどう書いてもよさそうだが、外来語でもないのになぜカタカナなのか。

ところが雑誌に限らず「クルマ」が多用されていることを知った。本のタイトルである。

徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』草思社
 鈴木伸一『こうすればクルマの寿命はもっとのびる!』講談社
 国沢光宏『愛車学 知らないと損するクルマの常識・非常識』PHP研究所
 日本経済新聞社編『俺たちはこうしてクルマをつくってきた』日経ビジネス人文庫
 平成暮らしの研究会編『クルマ選びの裏ワザ・隠しワザ』河出書房新社
 青山元男『クルマのしくみがわかる本』講談社
 福野礼一郎『クルマはかくして作られる』二玄社

どれも今年出版された本のごく一部だ。

わたしが子供の頃、ということは昭和40年代だが、「クルマ」という表記は一般的ではなかったと記憶している。その後の歴史のある時点から「車」は「クルマ」になった。「車」を「クルマ」と書くとどういう感じの違いが出るか。

「通っぽい」

車に目がない。詳しい。薀蓄を語らせたらとまらない。「クルマ」と書く人は、車の通ではないか。どうやらここには法則があるようだ。

「通はカタカナで書く」

カタカナである。通はカタカナだ。たとえばドラマ関係の人は「脚本」とは書かない。

「ホン」

「脚本」でも「本」でもだめだ。ホンである。ホンでこそドラマの通だ。

やくざはどうか。

「シマ」

自分たちの管轄の領域である。「島」でも「しま」でもいけない。「シマ」だ。「シマ」でなくてはだめだ。

不良少年に会ったとき、日記にどう書けばいいか。

「うるさいガキどもだ」

がきでもなく、餓鬼でもない。ガキである。ガキと書くと、不良少年っぽさがよく伝わる。「わたしは不良少年を語らせるとちょっとうるさいですよ」という余裕まで感じられるではないか。

こうなるとカタカナはあらゆる物事に浸透していくだろう。歌舞伎の世界も例外ではあるまい。

「カブキ」

今にもロックをガンガンにかけて歌い踊りそうである。能はどうか。

「ノー」

拒絶されてしまった。これではいくらなんでもまずい。

「イエス」

だからってイエスってことはないじゃないか。

「イエスは日本古来の伝統芸能です」

なんでもカタカナで済ませられると思ったら大間違いである。

(2001.12.2)