夕空の法則

「こらっ」といって叱る

作家の中島らもが大麻所持で逮捕されたというニュースを聞いて、そういえばひところ夢中で読んだのに最近はすっかりご無沙汰していたと気づき、本棚を眺めたのだった。

麻薬と酒とくればやはり『今夜、すべてのバーで』だろうと、手を伸ばしたら、その手がつかんだのはなぜか『今夜、すべてのバーで』ではなく、『こらっ』というエッセイ集だった。エッセイ集なら『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』のほうがだんぜん好みなのだが、『こらっ』という字面になにか否応なしの力というか、「読まないつもりか、きさま」と脅されるような感じがして、気がつくと手にとっていた。

何年も前に読んだきりだ。なんだかちょっと気恥ずかしい。くすぐったいような気持ちで、久しぶりにぱらぱらとページをめくって、驚いた。

「叱りどおし」

目次から最後のページまで、叱りどおしだ。三部構成の第一部のタイトルがいきなり「とにかく叱る」で、それぞれのエッセイのタイトルも「駅前開発を叱る」「言語の圧殺を叱る」「日本映画を叱る」と、縦横無尽に叱っている。第二部は「地方を叱る」であり、第三部は「いまどきを叱る」だ。

だが驚いたそのわけは、なにも叱りどおしだからではない。前に何度も読んだ本だ、「お、やってるな、相変わらず」という感じだ。本なのだから「相変わらず」も何もないのだが。そんなことではなく、「こらっ」である。

「こらっ」

こらっと言って叱る大人を最近見かけない。少なくともわたしの周りにはいない。もっと驚いたのは、いつまでも子供だと思っていた自分がもうすぐ四十に手が届く齢であり、世間の目からすれば「立派な大人」であり、つまり「こらっ」と叱る立場にあるはずなのに、一度も口にしていないことである。口にしていないというより、できないというほうが正しい。だって「こらっ」だよ。試しに口に出してみてほしい。

「こらっ」

腹に力をこめるのだ。いたずら坊主どもが一目散に駆け出すくらいの迫力がなくてはいけない。そんな迫力が、わたしには決定的に欠けている。それにしても「こら」とはいったい何なのか。何かの擬音だろうか。わからないが、とにかく響きが怖い。もし「けらっ」だったらなんだか弱い。「むらっ」もだめだし、「ぷらっ」はもつてのほかだ。「こらっ」は「こらっ」だからよかった。では、親がおそろしい顔をして赤ちゃんを叱るときのあの言葉は何なのだろう。

「めっ」

おそらくは「だめ」が省略されたものではないか。それが、吊りあがった親の目とセットになって、睨みつける視線に力を与える。

叱る人を、わたしは見たいのだ。

(2003.3.9)