オリンピックである。
オリンピックでは、なぜか人は感動することになっている。ジャンプ台から遠くへ飛ぶのを見ては拍手喝采し、リンクを華麗に舞うのを見てはため息をつき、善戦むなしくメダルを逃した選手には涙を流す。
「感動しなくちゃな。オリンピックだからな」
誰に頼まれたわけでもないのに、オリンピックだからというただそれだけの理由で、人は先を争って感動する。感動しない者はオリンピックの空間から排除される。オリンピックの空間を支配しているものはなにか。
「感動の義務化」
勤労、憲法遵守、納税という三大義務のほかに、国民には感動という第四の義務があるのだった。義務を果たさなければどうなるか。
「非国民」
非国民呼ばわりはされたくない。ここはなにがなんでも感動しなくてはならない。だが、「感動している」とはいったいどういう状況をさすのだろうか。どうすれば、「感動している」ことを証明できるのだろうか。
「『感動した』と言う」
これで済むと思ったら大間違いである。嘘をついている可能性があるからだ。「感動した」の一言で片づくなどと思うのは、世の中を甘く見ている証拠だ。誰をも納得させる感動の仕方をしなければいけない。
「感動の方法」
これだ。国民が身につけなければならないのは、感動の方法だ。どうすればいいのだろう。
「叫ぶ」
闇雲に叫ぶ。うるさいったらありゃしない。はた迷惑である。
「泣く」
感動といえば涙だ。涙を流せばいいのではないか。だが、世の中には簡単に涙が出ない人がいる。
「ドライアイの人」
瞳が乾いている。いくら頑張っても涙が出ない。あんまり涙が出ないので泣きたくなるが、泣きたくても涙は出ない。涙を出そうとして頑張っている人はどんなことになっているか。
「変な顔でじたばたする」
眉間にしわを寄せ、唇をわなわなと震わせて、じたばたしている。本人は必死の形相だが、他人から見れば、ただのわけのわからない人である。なにしろ、変な顔でじたばたしているのだ。だが早く感動しないと非国民である。ドライアイの人が悩む。
「ランバダを踊る」
踊りたくなる気持ちはわかる。でもランバダはどうなんだ。いいのか。これではただの踊り好きではないのか。踊るだけではだめだ。歌だ。歌って踊ることほど喜びを表す仕草はない。
「ランバダを踊りながらドナドナ」
よりによってなぜドナドナなのか。明るいんだか暗いんだかわからない。嬉しいのか悲しいのか。オリンピックだ。歌はやはり「君が代」だろう。
「『君が代』で盆踊り」
「君が代」がダンス・ミュージックだったとは驚きである。しかも盆踊りだ。だが「君が代」で盆踊りを踊るのは至難の業だろう。こんな芸当ができるのはパパイヤ鈴木くらいのものではないか。パパイヤ鈴木がドライアイの人に言うだろう。
「だから、『千代に八千代に』で腰をこう、で、『さざれ石の』でくるっとこうだよ」
感動するのはなかなかどうして難しい。だがわたしは、非国民呼ばわりされてもかまわないと思うのだった。
(2002.2.20)