どうすればよいのかわからない時というものは誰にでもあるだろう。
明日は入試なのにまったく勉強に身が入らない受験生。
今夜の献立が思いつかない主婦。 部長と係長にはさまれてにっちもさっちも行かない課長。だが、わたしの経験から言えば、たとえば受験というものは、いくら試験勉強をしても、受かるべき人は受かり、落ちるべき人は落ちるものだ。残酷だが、これが真実だと思う。献立が思いつかないからといって落ち込む必要もない。一食抜いたくらいで人は死んだりしない。板ばさみの課長の苦悩は中間管理職にはつきものである。そういう人には先輩という心強い味方がいるものだ。
つまり、これらの例は、どうすればよいのかくよくよ悩んでもしかたがないものである。ところが世の中には、どうすればよいのか皆目見当がつかない状況というものが存在するから恐ろしい。
友人と会食する。料理が運ばれてくる。友人が言う。
「いただきマンモス」
いやだ。こんなことを口にする人はごめんだ。本人は面白いつもりかも知れないが、聞かされる身にもなってほしい。こんな言葉にいったいどう反応すればいいのか。どうすればよいのか、わからない。
友人がビールをこぼす。テーブルの上がビールでびしょびしょだ。
「アイアム・ソーリー・ひげそーりー」
なにを言い出すんだ。いつの時代の言葉だ。反応のしようがない。
どうすればよいのだろうと考える。考えていると、友人が話題を変える。
「驚いたよホント。インド人もびっくり」
出た。インド人もびっくり、である。たしかに一時期流行った言葉だ。だが、いまどきこんなことを言われては、どうしていいのかわかるものか。それにしてもなぜ「びっくり」は「インド人」なのだろう。
「パキスタン人も右往左往」
これでもいいじゃないか。だが、実際にこう言われたとして、ではどう受け答えすればいいかとなると、まったくお手上げである。
友人の攻撃はとどまるところを知らない。
「あの男?あんなの、アウト・オブ・眼中」
うんざりである。勘弁してほしい。「アウト・オブ・眼中」なんて言われた日には、もうどうしていいのか、途方に暮れるしかない。
会食が済む。また今度食事しようねと言って別れようとしたその刹那、もし友人がこう言ったらどうすればいいだろう。
「あばよ」
わたしなら、どうすればよいのかまったくわからない。なにしろ「あばよ」だ。いったいどう応えろというのか。
「アデュー」
恥ずかしい。「アデュー」と書いただけでも恥ずかしい。
「頼む。『あばよ』だけはやめてくれ」
友人が応える。
「あっそ。めんごめんご。じゃーね。バイバイピー」
まったく、どうすればよいのか、わからない。
(2002.1.28)