日本語には人を罵る語彙が少ないと、どこかで読んだおぼえがある。そういわれてみると、英語やスペイン語は罵り言葉が多い。専門の辞典があるほどである。
ためしに、人を罵る言葉を考えてほしい。
「ばかやろう」
「このやろう」
「まぬけ」
「あほ」
「しね」
せいぜい、こんなところではないだろうか。だが、よく考えてみると、罵りの言葉はもっとあるはずだ。ふだん使わないだけで、じつはひっそりとどこかで息づいている。思わず人をぎゃふんと言わせるような、罵りの言葉はないものか。
そして私は巡り会った。
「奥山益朗編『罵詈雑言辞典』東京堂出版」
あったのだ。日本にも罵り言葉の辞典があった。さっそくひもといてみた。
「薄らとんかち」
なつかしい。なんてなつかしいんだ。例文がある。
「この薄らとんかちめ、開けたドアーは締めて置け」
しかし「薄らとんかち」では相手はぎゃふんとは言わないだろう。
「おたんちん」
例文はこうだ。
「また家のカギを無くしたのか。おたんちん、まぬけ、役たたず」
どうも凄みがない。迫力に乏しい。
「覚えていろ」
これはビートたけしがよくギャグで使っている。奥山益朗氏が解説する。
「自分の言った言葉を覚えていろという脅迫の言葉。言葉としては迫力がないが、罵語の少ない東京ではしばしば使うことがある」
東京の言葉を標準語とする日本語にはやはり罵詈雑言が少ないようだ。
「げじげじ魂」
なんだこれは。初めて聞く言葉だ。奥山益朗氏の解説を読もう。
「『蚰蜒魂』と書く。意地の悪い憎まれ者の性格を罵って言う言葉。『蚰蜒野郎』とも言う。蚰蜒はゲジ目の節足動物で、細長い黒褐色の体に15対の足が生えている。屋根裏などに棲んでいるので珍しくないが、気持の良い虫ではない」
珍しくない虫なのか。私は見たことがない。
「田吾作」
これもなつかしい。中学の担任の先生にこう言われたことがある。もはや死語ではないだろうか。
「畜生」
奥山益朗氏はここでも解説する。
「相手の人を人間とは思えないとして罵る言葉。また、怒ったり悔やんだりした際に発する感動詞。また「ちきしょう」「あん畜生」「こん畜生」とも言う。江戸時代から庶民がよく使った言葉で、現在もよく使われている。なお、引例の『東海道中膝栗毛』にあるように、馬方同士は『畜生』『糞を食らえ』のような汚い悪態を投げ合って、挨拶にしていた」
これが挨拶だという。江戸の馬方が通りで出会う。
「おい、畜生」
「糞を食らえ」
どんな挨拶だ。
「ちんちくりん」
奥山益朗氏はまたしても解説する。
「背の低い人を嘲って言う言葉。また、着物の丈が短いことを冷やかして言う。語源はさっぱり分からない」
奥山益朗氏もとうとう匙を投げてしまった。
「お前の母ちゃん出べそ」
子供のころ、よくこの言葉を口にした。すっかり忘れていた。
「相手の母親を罵る言葉だが、いとも幼稚で可愛いと言うほかない。日本は名誉ある罵語後進国である」
名誉ある罵語後進国。日本の夜明けは遠い。
(2001.11.23)