夕空の法則

句点をつける

どうやら時代は句点であると気づいたのは数年前のことだ。東京のテレビ局がオーディションで女の子を数名集めて歌手デビューさせたときのことだ。言うまでもない、モーニング娘。である。

こう書いて、もうすでに違和感がある。

「モーニング娘。である」

この違和感はなんだ。文章が途中で切れて、「である」と続く。そもそもこうした句点の使い方を始めたのは糸井重里だと記憶する。西武百貨店の「不思議、大好き。」というコピーだ。だが人はそんなことは忘れている。そして、今、句点は復活した。時代は句点なのだ。

ある朝新聞を読んでいると、こんな文に出くわした。

「モー娘。新メンバー募集」

モーニング娘。が省略されてモー娘。になっているのである。ここで重要なのは、「。」は絶対に省略されないということだ。そして全体の文字数が減ることによって、「。」のもつ意味はさらに増すことになる。「。」が世界を侵食しはじめたのだ。

こうなると気が気ではない。いつなんどき「。」が襲いかかってきてもおかしくはない。うっかりしていると名前に「。」がつく。そんな事態が刻々と迫っている。そしてそれはついに現れた。

「カントリー娘。」

きたか。やっぱりきたか。「。」をつける。それだけで、なぜか、かっこよかったり、アイドルっぽくなったり、流行の先端にいると思えてしまう。罠だ。罠に違いない。放っておくと、きっととんでもないことになる。たとえば、こんな人が現れるに違いない。名刺を取り出す。役職名の下に名前がある。

「山田敬一。」

みると当人は小鼻を膨らませてちょっと得意げである。「まあね、今はほら、『。』だからさ」。名刺をもらうこっちの身にもなってくれ。どういう顔をして受けとればいいというのか。勘弁してもらいたいものである。

ところで今小泉純一郎首相の人気が異常に高い。調子に乗って写真集まで出す始末である。従って、小泉首相には「。」は必要ない。小泉首相は「句点が要らない人」として後世に語り継がれるだろう。

では「。」が必要な人とは誰か。

言うまでもない。前首相の森である。森の最大の誤りは、えひめ丸が沈没したときに暢気にゴルフを楽しんでいたことでもなければ、日本を「神の国」と発言したことでもない。名前である。名前に「。」をつけなかったのが致命的な過ちだった。

「森喜朗。」

ブロマイドが飛ぶように売れるだろう。週刊誌のグラビアには引っ張りだこだ。テレビのレギュラー番組は週に何本も受け持つだろう。

いずれあらゆるものに「。」がつくことになっても慌ててはいけない。「南の風が運んでくれた物語。」などというシャンプーが発売されても、決して驚いてはいけない。なぜなら時代は句点だからである。

(2001.9.27)