あさっての方とはいったいどっちなのか。
見当違いの方向を向いていると、人は言う。
「おい。顔があさっての方を向いてるぞ」
小学校時代、町の少年団で剣道を習っていた。たまたま学校の担任が師範だった。先生に稽古をつけてもらうのは楽しみだった。なにしろこの先生ときたらずるい。ずるがしこさにかけては、狐にも劣らない。
ある日、いつものように、先生の胸を借りて稽古した。互いに竹刀を構える。「どありゃあ!」とかなんとか叫びながら、先生が面を打ってきた。わたしは竹刀でかわして頭をよけた。つばぜり合いになる。先生の顔が目の前にある。すると先生は言った。
「竹刀があさっての方を向いてるぞ」
妙なことを言うものだ。はて、どっちを向いているのかなと思ったその刹那、先生はさっと身を引きながらわたしの胴に見事に竹刀を斬りこんだ。わたしの完敗である。
このときわたしは学んだ。
「竹刀があさっての方を向くと、胴を斬られる」
そのとき竹刀がどっちを向いていたのかは覚えていない。だがとにかく、あさっての方を向いていたらしい。
今になって冷静に考えれば、竹刀があさっての方を向いていたから、胴を決められただけで済んだのかもしれない。もし、しあさっての方を向いていたらどうなっただろう。
「本物の刀でめった斬り」
こんなことをされては、命がいくつあってもたりない。仮に、やのあさっての方を向いていたらどうか。
「バズーカ砲で木っ端微塵」
もはや一対一の闘いではない。大量殺戮だ。うっかり竹刀をやのあさっての方に向けたばっかりに、罪もない市民が大勢犠牲になる。
大量殺戮といえば、去年の9月11日に世界貿易センターにテロリストがハイジャックした旅客機が突っ込み、ビルが倒壊した。非道な行為である。卑劣きわまりない。だがひょっとすると、乗客が間違いをしでかした可能性がある。
「乗客全員が昨日の方を向いていた」
テロリストは憤怒にかられただろう。なにしろ人質全員がテロリストを無視して昨日の方を向いているのである。テロリストは言っただろう。
「おい。昨日の方を向いてるぞ。昨日の方は向くな」
だが乗客は意に介さない。テロリストは報復のためにビルに突っ込んだ。
ハイジャックされた四機目の旅客機はピッツバーグの郊外に墜落した。いったい機内でなにがあったのか。
「ある乗客はおとといの方を向き、別の乗客は三日後の方を向いていた」
これではテロリストもどうすればよいのか分らないだろう。
「おい。向くなら同じ方を向け」
だが乗客はてんでばらばらである。なかにはとんでもない人もいただろう。
「1976年5月26日の方を向く」
どっちだ。1976年5月26日はどっちにあるんだ。
では大量殺戮を避けるためにはどっちを向けばよいのか。
「今日をまっすぐ見つめる」
だが「今日」がどこにあるのか、わたしにはわからない。
(2002.1.4)