夕空の法則

ぬるま湯

その日はいつものように朝日新聞を読んでいた。一面、政治面、経済面と順番に目を通したが、とくに興味を惹くような記事はない。スポーツ面はイチローとヤクルト優勝目前という話題が中心だった。ふつうならここで一気に社会面に飛び、テレビ欄を眺めて終わりなのだが、なぜか私は「くらし」というページをぼんやりと眺めていたのだった。

家庭内の問題や医療、介護の悩みなどを扱うページである。おそらく大半の読者は女性だろう。その日は「人工呼吸器」と「終末期の医療」「アトピー講演会」などの記事が載っていた。渋谷の街をスケッチして歩き回っている73歳の老女の写真もあった。私は今病気療養中なので、なにか参考になる情報はないかと紙面を見渡したが、なにもなかった。そこで読むのをやめればよかったのだが、どういうわけか、私の視線はページの下半分に向けられていた。

「第26期名人戦」

囲碁の名人戦のレポートである。碁盤の図があり、対局者の名前がある。

白 名人 依田紀基(2勝0敗)
 黒 挑戦者 林海峰(0勝2敗 5目半コミ出し)

二人の名前と対戦成績である。だが「5目半コミ出し」の意味が分からない。囲碁をやっている人なら常識なのだろうが、あいにく私は門外漢である。まるで見当がつかない。レポートを読めばヒントがつかめるかも知れない。私は記事を読んでみた。

「夜の7時34分に終局。黒地54目、白地は49目、白の半目勝ちが確認された。周りの棋士たちは、『えっ、半目!』と驚いた様子だった」

棋士たちが驚いたということは分かった。だが「半目」が分からない。私は棋士たちとは別の理由で驚いた。続きを読む。

「林挑戦者は、黒15(18の十三)のノゾキなど、積極的に動いたものの、必ずしもいいとは思っていなかった」

ノゾキ。一体なんなのだ。ノゾキで積極的に動く。どんな動きなのか。だが記者は私のそんな疑問には答えず、平然とレポートを続ける。

「決断の一手・白48(9の五)のツケコシは、こう打たないと勝負にならない、という気持ちから生まれたものだ」

今度はツケコシである。ノゾキにツケコシ。わけが分からない。教えてくれ。意味を教えてくれ。だが記者は馬耳東風だ。私は打ちひしがれて、しかたなく続きを読んでみた。

「挑戦者は地合いで悪いと見て、左上隅に侵入したのが裏目に出た。白76から分断されてしのぎに追われ、形勢を損じた」

「地合い」とはなんなのだ。「しのぎに追われ」とは一体どういう状況なのか。だが挑戦者が不利になったことだけはなんとか分かる。それでもまだ頭の中がむずむずして気持ちが悪い。すると記者はこう締めくくった。

「優勢になってから、名人は手堅く打ち進めた。『ぬるま湯に入って、気がついたらおかしい。半目にはびっくりした』という」

びっくりしたのはこっちの方だ。「ぬるま湯に入って、気がついたらおかしい」。風呂か。風呂なのか。

私は今、途方に暮れている。

(2001.10.25)