近所の弁当屋に出かけた。
なんとなく牛肉が食べたくてメニューを見たら「牛焼き肉弁当」というのがあったので、それを注文すると、店員が訊ねた。
「スペシャルですか」
なんのことだかわからず、メニューをよく見ると、「牛焼き肉弁当」とは別に「牛焼き肉スペシャル弁当」というのがあり、それには「牛焼き肉弁当」にはない鮭が、ご飯の上に乗っていた。焼き肉だけよりは鮭も食べた方が栄養のバランスがよさそうに思えたので、それを注文することにした。
「じゃあ、スペシャルで」
そう口にした私は、とても恥ずかしかった。
「スペシャル」
ためしに実際に口にしてみてほしい。スペシャル。この恥ずかしさはどうだ。焼き肉と鮭が入っている弁当なら、「焼き肉鮭弁当」でいいと思うのだが、なぜか「牛焼き肉スペシャル弁当」なのであり、だから私は、口にしたくもない「スペシャル」などという言葉を発してしまったのだった。
どういうわけか、人は「スペシャル」に弱い。新聞広告には「スペシャル企画」という文字が躍っているし、テレビをつければ「日曜ビッグスペシャル」だ。誰だってブラウン管に釘付けになる。なにしろ「ビッグ」で「スペシャル」なのだ。いったいなんだそれは。
こうなると「スペシャル」は日常生活の思いも寄らないところに出現する可能性がある。焼き肉に鮭が加わるだけでスペシャルなのだ。主婦が肉じゃがを作る。ふだんはじゃがいもと牛肉だけだが、その日は趣向を変えてさやえんどうを入れた。夫は箸を止めて言うだろう。
「お、今日はスペシャルだな」
「そうよ。スペシャルよ」
「ああスペシャルだ。今夜はスペシャルなんだな」
家庭でさえこうなのだから、大学だって例外ではないだろう。
「フランス革命史スペシャル」
教室は集まった学生で溢れかえる。宗教の世界だって黙ってはいない。
「日曜礼拝ビッグスペシャル」
誰もが「スペシャル」に憧れる。口にこそしないが、心の底では「毎日がスペシャルだったらなあ」と思っているにちがいないのだ。だが、もしこんな電話がかかってきたとしたらどうだろう。
「私、今スペシャルなのよ」
どう応えろというのか。
「スペシャルなのね。スペシャルなあなたね」
だが私は、毎日がスペシャルじゃなくても一向に差し支えないし、できれば「スペシャル」などと口にしたくはないのである。
(2002.6.12)