夕空の法則

落ち着く

落ちつきたいと思ったのだった。

現代はとかくスピードがもてはやされる。速さこそが至上の価値だと言わんばかりだ。先日パソコンにウィンドウズXPをインストールした。インストールの画面にこんな表示が現れた。

「パフォーマンスは常に高く保たれているので、より多くのプログラムをより速く実行できます」

速さだ。やはり速さである。速くなければだめらしい。たしかにウィンドウズXPは速い。プログラムは一瞬のうちに起動される。だがなぜそんなに急ぐ必要があるのか。なんでも速ければいいというものでもなかろう。

「のんびりと構える」

ときにはこういう姿勢も大事ではないだろうか。ゆったりと落ちついている人は、心に余裕がある人だ。せかせかしている人に心の余裕がない。それは心の貧しさを物語ってはいやしまいか。

「落ちつく」

誰もがこぞって速さを競い合っている今こそ、落ちつくことが見直されるべきではないか。では落ちつくためにはどうすればよいのか。

「座る」

まずは座ることだ。突っ立っていては落ちつかない。ただし、どこに座るかが問題である。

「渋谷のセンター街」

落ちつかない。周りはコギャルとチーマーで溢れかえっている。いくら座っても、渋谷のセンター街では落ちつけるはずがない。

「阿波踊り」

見渡せば踊る阿呆と見る阿呆ばかりだ。どんちゃん騒ぎである。そんなところに座ってはいけない。踏み潰される。

「自宅の椅子」

やはり椅子だ。それも自宅が望ましい。思う存分落ちつける。だが座り方も気をつけねばならない。

「おろおろする」

だめだ。おろおろしてはいけない。落ちつけ。

「きょろきょろする」

なぜきょろきょろするのだ。じっとしていられないのか。

「沈着冷静」

これだ。なにごとにも動じないさまだ。しかし、よく考えてみると、沈着冷静とは、なにかとんでもない事態が起きたときの振る舞いである。だがとんでもない事態など起こってはいない。ただ椅子に座っているだけだ。

「ただ椅子に座る」

これでよさそうだが、落ちついているという感じがない。どんなふうに座ればいいのか。

「泰然として座る」

落ちついている。物事に動じない。だが、なんだか大げさである。

「悠揚として迫らず座る」

たしかにゆったりとして落ちついている。だがこれもちょっと気取りすぎだ。

「臆面もなく座る」

ちょっと待ってほしい。「臆面もなく」はいいのか。気後れしないという意味だ。ただ椅子に座るのに気後れも何もありはしない。

「けろりとした顔で座る」

何事もなかったかのように平然としているさまだ。だが、そもそも、何事もないのである。けろりとした顔をする必然性がない。

「おめおめと座る」

そんな座り方があるか。おめおめとは、恥知らずという意味だ。ただ座っているのに、恥もへったくれもあるものか。

「いけしゃあしゃあと座る」

座っているのは自宅の椅子だ。自分の椅子である。なのに、いけしゃあしゃあと座るとはなにごとか。厚かましいといわれる筋合いではない。なにかないのか。ほかにいい座り方はないのか。

「のほほんと座る」

これほど落ちついている状態がほかにあるだろうか。

のほほん。今年のわたしのモットーはこれだ。

(2002.1.9)