久しぶりに名古屋の熱田神宮に出かけた。
初詣の時期には必ずニュースになるから、ご存知の方は多いだろう。主神は草薙剣を神体とする熱田大神という神さまで、古来、皇室や武家が尊崇してきた。尾張開拓の神として東海地方を中心に崇敬者が多い。
熱田神宮に出かけたのは参拝が目的ではなく、目当ては境内に隣接した創業百三十年の鰻の老舗「蓬莱軒」の〈ひつまぶし〉である。
〈ひつまぶし〉とは、簡単に言えば丸いお櫃に入った鰻丼だ。蓋をとると、細切りの鰻がびっしり詰まっている。これをしゃもじで茶碗によそって食べる。一杯目はそのまま食べる。二杯目は、刻んだわけぎとわさびと刻み海苔の三種類の薬味を好きなだけ混ぜて食べる。そして三杯目は、薬味に加えて、だし汁をかけ、お茶漬けにする。これが滅法うまい。いつ食べてもうまい。あんまりうまいので、なぜか泣きたくなる。
舌鼓を打ったあと、神社の境内を散歩した。風の強い昼下がりだが、境内は亭々とそびえる大木の並木道で、そよ風すら吹かない。まるで時間が止まったかのように森閑としている。
本殿に向かう途中に大きな看板があった。
「厄年」
はっとした。今年厄年を迎える男女の出生年が巨大な文字で記されている。
なぜ、はっとしたか。
「厄年」
なぜか「厄年」には恐ろしい力があるように感じられはしないか。科学的な根拠があるのかどうか、怪しいものである。だが、科学者も「厄年」を迎えると、なんだかそわそわするのではないか。男性なら25歳と42歳と60歳、女性は19歳と33歳と49歳である。
「厄年だからな。用心しなくちゃな」
誰もを納得させてしまう不思議な力が「厄年」にはある。この力の正体はなにか。
「理不尽な説得力」
あれこれ理屈を並べても始まらない。とにかく「厄年」である。「厄年」を迎えただけで、人は恐れおののき、それまで天に唾していた者さえ手のひらを返して神社に参詣したりしてしまうから恐ろしい。
「理不尽な説得力」はこれだけではない。
「本厄」
怖い。なんともいえず、怖い。ただの厄年ではないのだ。「本厄」である。そんなに驚かさないでくれよと言いたい。
だが「本厄」も「厄年」も免れたからといって安心してはいられないのだった。
「前厄」
いったいどこまで人を驚かせれば気が済むのか。厄年だけでも危ないのに、その前の年も危ないという。まったく理不尽な話である。だが、妙に説得力があるから始末におえない。
「前厄?どーでもいいじゃん」
と言った瞬間、階段で足を滑らせて骨折、全治二ヶ月である。そして、この罰当たりな人を、あらたな「理不尽な説得力」が襲いかかる。
「後厄」
いい加減にしてくれよ。勘弁して下さい。
「後厄?そんなの迷信に決まってるじゃん」
するとどうだ。父は交通事故に遭い、妻は流産し、本人は痛風と胃潰瘍とぎっくり腰だ。子供は幼稚園でいじめられ、親戚は会社の金を横領して逮捕される。
理不尽な説得力が相手では、人は無力である。
(2002.2.6)