夕食をすませて書斎で本を読んでいたら、表から女の悲鳴が聞こえてきた。
何事かと思い、ベランダの窓を開けた。通りの向かいのアパートから、金切り声が響いてくる。泥棒か。痴話喧嘩か。あるいは深刻な事件か。恐ろしくなり、よっぽど警察に電話しようかと思ったが、そうしようとした矢先に叫び声はおさまった。男と女が大声でまくしたてている。どうやら夫婦喧嘩だったようだ。
わたしは独身なので、夫婦という一種独特の関係についてあれこれ言う資格はないし、その気もない。十組の夫婦がいれば十通りの夫婦関係があるだろう。他人には想像もつかない、余人の思い及ばざる不思議な縁というものこそ夫婦であろう。
「夫婦は愛し合うとともに憎しみ合うのが当然である」
坂口安吾の言葉である。
「たいていの男たちは、誰も彼らの妻をかっさらってくれないことを嘆く」
ニーチェの言葉だ。それにしてもニーチェはとんでもないことを言う。夫はみな妻を「かっさらって」ほしいのだろうか。
「妻は絶えず夫に服従することによって彼を支配する」
トマス・フラーの箴言だ。「服従することによって支配する」。妻とはこれほどにも奸智に長けた存在なのか。油断も隙もあったものではない。
だがわたしの心にひっかかっているのは、ニーチェでもフラーでもなく、古来日本で語り継がれてきた言葉だ。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
夫婦喧嘩というものは他人が口を挟むと火に油をそそぐことになる。へたをするととばっちりを受けることにもなりかねない。取り合わないのが賢明である。だいたいそんな意味だろう。この言葉がなぜ心にひっかかっているのか。
「犬も食わない」
ここだ。ここがどうも気になる。「犬も食わない」というからには、犬はなんでも食うということが前提となっているはずだ。つまりこういう結論が自然に導き出される。
「犬は夫婦喧嘩以外のあらゆるものを食う」
考えてみてほしい。
「あらゆるものを食う」
これがどんなにおそろしいことか。考えただけでも身の毛がよだつ。犬はなんでも食うのだ。例外は夫婦喧嘩のみである。夫婦喧嘩以外で犬が食うものを考えてみよう。
「猫」
犬は食うだろう。迷わず食う。
「三味線」
猫を食うのだから三味線も食って当然である。
「吉田兄弟」
津軽三味線の若手の実力派だ。犬は吉田兄弟も食う。
「叶姉妹」
兄弟を食うからには姉妹も食うに決まっている。犬が叶姉妹の体を貪り食う。内臓が飛び散る。あたりは血の海である。
「ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』」
食うのか。本も食うのか。兄弟に目がないのか。
「愛」
迂闊だった。犬が食うのは形があるものだけではなかった。愛も食う。抽象観念さえも犬の餌食だ。
「相対性理論」
犬がアインシュタインの思想を食う。
「日本国憲法」
食われてしまった。犬が憲法を食う。日本は無法地帯と化す。
「無法地帯」
犬が無法地帯に噛みつき、八つ裂きにする。日本は消滅する。
「世界」
日本を食った犬が世界を食い始める。
「宇宙」
ついにきた。犬の魔の手は宇宙にも及ぶ。はるかかなたの銀河系が次々と犬の胃袋におさまってゆく。だが宇宙が消滅してもたったひとつだけ生き延びるものがある。
「夫婦喧嘩」
夫婦は宇宙最強の存在である。
(2001.12.10)