夕空の法則

与那嶺がない

仕事柄、好きな俳優は誰ですかと訊ねられることが多く、そのたびにどう返事をしていいか悩む。たとえば女優なら明星真由美と答えたいのだが、明星真由美を知っている人はまずいない。そこでしかたがなく、原田美枝子ですと答えたりするのだが、それでも相手がポカンとしていることがあり、しかたなく、南果穂ですと言うとようやく、あ、そうなんですか、ということになる。

「好きな俳優は誰ですか」というときの俳優とは、ほぼ例外なく「テレビドラマの人」なのであった。一方わたしにとって俳優とは「舞台役者」である。同じ俳優という言葉を使いながら、ある人は「テレビの人」を指し、別の人は「舞台の人」を脳裏に浮かべている。「映画の人」を思い描いている人だっているだろう。同じ言葉なのに考えていることはまったく違う。

たとえば犬だ。中年男性がつぶやく。

「やっぱり、犬に限るな」

猫でもウサギでも鳥でもない、飼うなら犬に限ると言いたいのだろうと人は思いがちだが、そうとは言い切れないからコミュニケーションは怖い。

「犬、お好きなんですか」  「ええ、とくにスープが」

犬といえば「愛玩動物」だという一般的な思い込みはあっけなく敗北する。この中年男性にとって、犬といえば「スタミナ料理」なのであった。

あるいは大仏だ。大仏に向かって、修学旅行の中学生が言う。

「死んじゃえばいいのに」

死ぬもなにも、あれはでっかい金属の塊じゃないか。大仏に向かって「死んじゃえばいいのに」はどう考えてもおかしいが、この中学生にとって「大仏」はいじめっ子のあだ名であり、大仏を見るといじめっ子の顔をつい思い出してしまうのだから、事態は複雑である。

と、ここまで書いてきて思い出したのが、今年もらった年賀状だ。

「残りのオカズは麦に」

朝食だか夕食だか知らないが、おかずが残ったらしい。残ったおかずは麦に。わからない。残ったおかずほ麦の肥料にするというのか。それは麦の生育にとっていいことなのか。差出人は高校時代の先輩で、農業に従事しているわけではなく、医学関係の出版社に勤めている。なのにいきなり「麦」だ。そして、麦とは先輩の小学四年生の長女の名前なのであった。先輩の家庭で「麦」といえば娘である。機会がなくてお宅にお邪魔したことはないのだが、思うに、この家では、「麦も大きくなったな」とか「そろそろ麦の出番だ」とか「いつまでたっても麦は麦だね」など、「麦」が頻繁に口にされているだろう。そして麦ちゃんだって、「麦」を口にしているかも知れないのだ。

「麦のパンはどこ?」

こうなるとよくわからないことになっているが、名前なんだから他人がとやかく言う筋合いのものではない。

ある人にとって「麦」は愛娘である。であれば「壷」という息子がいる家庭があっても不思議ではないし、「坊主丸儲け」という名前の亀を飼っている人だっているかも知れず、あるいはトイレットペーパーがなくなると「与那嶺がないぞ」とつぶやく人がいてもおかしくはないのである。

(2002.4.2)