フランスの映画監督ゴダールが『ゴダールの映画史』という大作を撮ったことは、映画ファンなら知らない人はいないだろう。つい最近DVDが発売された。古今東西のあらゆる映画の断片をアトランダムに繋げた壮大な作品である。そして、その衝撃は全世界を走り、関連本が矢継ぎ早に出版されている。先日、そのなかの一冊を買った。
四方田犬彦・堀潤之編『ゴダール・映像・歴史』産業図書
本には帯というものがある。外国の本ではお目にかかることが少ないが、日本では、単行本でも文庫本でも、表紙をぐるりと帯が囲み、そこに宣伝文句が掲げられている。『ゴダール・映像・歴史』にも帯がある。
「映画とは、いったい何であったか。
世界の映画史を一新させた監督ゴタールによる畢生の大作『映画史』をめぐって、日・仏・英の研究家がその是非を論じあう。映画研究の最前線」
わたしははっとした。
「映画とは、いったい何であったか」
こんなことを考えたことは一度もなかった。それにしても質問が唐突だ。「何であったか」である。本を読むまえに読者をはっとさせる。そして追い討ちをかける。
「映画研究の最前線」
最前線である。これを読めば、映画評論の最新情報が得られるらしい。これ以上新しい映画研究はない。
「映画研究のどんづまり」
だからといって、どんづまりってことはないじゃないか。どんづまりはだめだ。これでは売れる本も売れやしない。
最近は不況だそうで、出版業界も本が売れなくて困っているらしい。今や本を読まなくても欲しい情報は簡単に手に入る。とりわけインターネットの影響は大きいだろう。どんな情報でも、検索エンジンに入力すればあっというまに情報が見つかる。「青空文庫」というサイトでは、夏目漱石や森鴎外など、主要な文人の名作の数々がオンラインで無料で読める。これでは本が売れなくて当然である。だがインターネットにも弱点がある。
「帯がない」
インターネットになくて本にあるもの。それは帯だ。もし本が売れなくて困っているのなら、帯に工夫を凝らしてはどうか。
伊吹卓『バカになれれば成功する』PHP研究所
4年前に出版された本だ。この本が売れたかかどうかはしらないが、ベストセラーになったという話は聞かない。帯の出番だ。考えよう。
「バカとは、いったい何であったか」
なにを言っているんだ。「何であったか」。過去形である。だがあらためて問われると、考えさせられる。思えばバカについて一度も真剣に考えたことはなかった。バカになれれば成功するという。ならばそもそもバカとは何かがわからなければならない。だがこれだけでは帯としては役不足だろう。もうひとこと欲しい。
「バカの歴史をめぐって、日・仏・英の研究家がその是非を論じあう。バカ研究の最前線」
「バカ研究」などという学問があることにも驚かされるが、その研究に「最前線」あるのはさらに驚きである。
バカ研究の最前線。この本が売れなくてもわたしの責任ではない。
(2002.1.8)