『蓮實養老縦横無尽』という奇妙なタイトルの本を読んでいた。
蓮實は前東大総長の蓮實重彦で、養老は解剖学者の養老孟司だ。ふたりの対談と講演録がおさめられていて、おもなテーマは「学力低下」の問題である。
漢字が読めない。数学の基本を学んでいない。だから最近の学生はだめなんだというのが、「学力低下」を心配する人たちの口癖だ。私も大学で教えているので、学生が簡単な英単語を知らなかったり、ちょっと難しい漢字が読めなかったりするのを見て驚くことがときどきあるが、だからといってそれが「学力低下」だとは思っていない。昔から大人というものは「最近の若い者はだめだ」と嘆くものである。今に始まった話ではないのだ。
だから蓮實の考えに私は深くうなずいたのだった。インターネットが普及し、あらゆる知識がおそろしい速度で大衆化しているのだから、「学力」が低下するのはあたりまえだと蓮實は言う。そのとおりだろう。だが、私がこの本に惹かれたのは、「学力低下は問題じゃない」ということではなく、蓮實が地下鉄で遭遇した、ある体験だった。
ある日地下鉄に乗った蓮實は、ふと目をあげると目の前に「いわゆる地下鉄の乗客そのもの」という人がいてひどく驚いた。思わず「あなた、どうしたんですか」と声をかけたくなるほど、その人は「いわゆる地下鉄の乗客そのもの」だったという。そして、そういう人が存在するということが世界の恐ろしさであり、生きていることのすばらしさなのだだと蓮實は述べている。
「いわゆる地下鉄の乗客そのもの」
これだ。問題はこれである。
その人は座席で眠っていたらしい。地下鉄の座席に座るとつい人は眠ってしまう。
「地下鉄だからな。眠らなくちゃな」
こんな風に意気込んで乗る人はいないし、「地下鉄で眠らない俺はなんてだめなんだ」と意気消沈する人もいない。気がついたときには、いつの間にか「いわゆる地下鉄の乗客そのもの」になっているから恐いのだ。
人はなぜか「いわゆる何々そのもの」になってしまう。
「いわゆる酔っ払いそのもの」
ぐでんぐでんだ。ネクタイはもちろん頭に巻いている。千鳥足で、えへらえへら笑いながら、あっちをふらふら、こっちをふらふらし、一向に前に進まない。右手にはカバン、左手には寿司折をぶらさげている。こんな人がいたら誰だってつぶやかずにはいられない。
「どうしたというんだ」
なにしろその人は「いわゆる酔っ払いそのもの」なのだ。
街にはきっと、さまざまな「いわゆる何々そのもの」な人がいるのだろう。それは「いわゆる牛乳を飲む人そのもの」であり、「いわゆる犬を散歩させる人そのもの」である。
ほんとうに恐ろしい。
(2002.6.2)