映画批評家の四方田犬彦の『アジアのなかの日本映画』を読んでいた。
「アジアのなかの日本映画」「日本映画とマイノリティの表象」「一九九〇年代の日本映画」「日本映画の海外進出」の四章から成る。どれも面白いが、私は、まえがきの最後のフレーズにはっとさせられた。
「殺し屋がそうであるように、映画批評家も二種類しかいない。プロか、馬鹿だ」
ずばり言い切っている。この断定ぶりはどうだ。見事ではないか。なかなかこうは言い切れるものではない。私は感心した。だが、感心したと同時に、ひとつの疑問が生まれたのだった。
「ほかの職業はどうなっているのか」
たとえばお花屋さんだ。小さい女の子の憧れの職業でいつもトップクラスだ。だが四方田犬彦は冷酷にこう告げるだろう。
「殺し屋がそうであるように、お花屋さんも二種類しかいない。プロか、馬鹿だ」
プロはいい。問題は馬鹿だ。馬鹿なお花屋さんは、そもそも花の名前を知らない。バラを注文すると、チューリップとりんどうと百合の花束を作る。店先の花はどれも枯れている。どうして花に水をやらないんですかと訊くと、え、花って水をやらなくちゃいけないんですか、などと驚いている。まったく困ったお花屋さんである。
新聞配達はどうだろう。
「殺し屋がそうであるように、新聞配達も二種類しかいない。プロか、馬鹿だ」
馬鹿な新聞配達は、放っておくと、牛乳を配達する。
「牛乳を配達してどうするんだよ」
店主が叱る。すると今度はヤクルトを配りだした。
「新聞だよ。新聞配達は新聞だよ」
ようやく新聞配達は新聞を配達しはじめた。ところがよく見ると、目に入った家という家に片っ端から新聞を配達している。家によっては購読している新聞が違うのに、お構いなしだ。新聞配り放題。まったくどうしようもない新聞配達である。
茶道の先生はどうか。四方田犬彦はここでも断言する。
「殺し屋がそうであるように、茶道の先生も二種類しかいない。プロか、馬鹿だ」
茶道を習いに行く。玄関を開けて出迎えてくれた茶道の先生はアロハシャツに海水パンツ姿である。嫌な予感がする。
茶室に案内された。フローリングの床に、バリ島土産の魔女ランダの巨大な置物と、虎皮の敷物がある。なぜか天井からはボクシング用のサンドバッグがぶら下がっている。茶道教室が始まる。
「まず片栗粉を水で溶いてください」
どんな茶だ。呆気にとられていると、茶道の先生は次の手順を伝授する。
「レンジで温めてから冷蔵庫で三日間冷やします」
だめだ。こんなことではだめだ。この先生は馬鹿である。馬鹿な茶道の先生に弟子入りしてしまった。
これから仕事を頼んだり教わったりするときはプロに頼むべきである。馬鹿はごめんだ。だが四方田犬彦はまたしても断言する。
「殺し屋がそうであるように、馬鹿も二種類しかいない。プロか、馬鹿だ」
馬鹿のプロ。その世界はきっととんでもない世界に違いない。
(2001.11.9)