名言というものがある。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
ハムレットである。名言にはどこか荘厳というか潔さというか、「どうだ」と言わんばかりの力がある。その力の源は何なのか、それが私には謎だった。手許に『世界名言大辞典』という本がある。「知恵」「学問」「名声」「性」「趣味」などの項目があり、それらのテーマにのっとった名言がずらりと並ぶ。「自我」のところにはこんな言葉がある。
「汝自身を知れ」
潔い。堂々たるものだ。立派である。これ以上短くしようがない簡明さである。ではこれはどうだ。
「天才とは努力する才能である」
思わず唸らされる。きっぱりとした感じが見事だ。「努力だな、やっぱり努力なんだな」と考えずにいられない。するとヘーゲルがこんなことを言っている。
「天才を知る者は天才である」
当たり前ではないのか。だがそこは名言である。断定だ。断定すればよいのだ。いくつか名言を読んで気がついた。語尾に特徴がある。「だ」「である」「ない」で終わる言葉が多い。
「人間は考える葦である」
「天才とは、最大の根気にすぎない」
「私は暴力に対してひとつの武器しか持っていない。それは暴力だ」
断定による「きっぱりとした感じ」はどうやら語尾にあるようだ。
ここで私は気がついた。名言はどれも標準語で書かれているのである。だがわれわれは誰もが標準語で話しているわけではない。名言を吐く島根県民がいてもおかしくはない。茨城にもいるだろう。
格言が方言になったらどうなるのか。
私はインターネットで調べた。方言コンバータと呼ばれるサイトが数多くあるのを発見した。方言を選び、標準語の文章を入力してボタンを押す。自動的に方言に変換される。「人間は考える葦である」。広島弁で試してみた。
「人間は考える葦じゃ」
菅原文太が現れた。仁義なき戦いである。「きっぱりとした感じ」はあるが、無意味に凄んでいる。そう凄まれても困る。「はい、分かりました」としか返事のしようがない。博多弁ではどうか。
「人間は考える葦であるとよ」
博多のルソーは何だか朗らかそうな人だ。思わずこっちも「そうやろ、そうやろとも」と博多弁になるから怖い。今度は金沢弁だ。
「人間は考える葦であれんて」
なんだこれは。「あれんて」とはなんだ。でもこれが金沢弁の名言である。金沢の人は「あれんて」とくれば断定だ。ルソーさんは京都に行った。寺を巡り、悟りを開き、こう呟く。
「人間は考える葦どす」
舞妓だ。舞妓になった。思索をやめないルソーは津軽を訪ねた。
「人間は考える葦であるんずや」
いいのか。こんなことでいいのか。だがこれが津軽弁の断定である。津軽の「きっぱりとした感じ」である。でも私は思う。
名言は標準語にしておけ。
(2001.10.4)