最初はひっそりと始まったのに、いつのまにか世の中にはびこってしまうものがある。その代表的なものが「J」ではないか。辺りを見渡せば、なんでもかんでも「J」だ。浜崎あゆみはJ-POPであり、阿部和重はJ文学だ。
「J」が堂々と登場したのはJRが最初だろう。それから専売公社がJTになった。おそらくそれを真似したのだろう、農協がJAと名を変えた。だが「J」のブームに火をつけたのはJリーグだ。92年のことである。この頃から「新しい日本」という意味をになって「J」が一人歩きし始めた。日本文学でいいはずなのに、なぜかJ文学という。フォークからニューミュージックへの流れはJ-POPに吸収された。
「J」が市民権を得たのが、バブル崩壊と日本のナショナリズムの強化と同時であることが気になるが、ここではナショナリズムの問題を議論するつもりはない。問題は「なぜJなのか」だ。電電公社はNTTと改称した。アメリカの電信電話会社、ATTの真似である。アメリカの頭文字がAだから、日本も頭文字のNをとったわけだ。だったらほかの名称もNでいいじゃないかと思うのだが、なぜか「J」である。
たとえば牛肉だ。和牛という言葉があるのに、どういうわけかJビーフという。それだけならまだいいが、豚肉はJポーク、鶏肉はJチキンというらしいからことは深刻だ。ここ数年肉はスーパーでしか買ったことがないからよく知らないが、肉屋で客は注文するときにこんな言葉を使うんだろうか。
「Jポークください」
言わないだろう。言わないんじゃないか。だって恥ずかしいよ。「Jポークください」はいやだ。なんだか食べ物じゃないような気がする。だがJポークの名づけ親は得意満面だったに違いない。
「Jだからな。時代はJだからな」
今や漫画もJコミックである。日本中央競馬会はJRAだ。携帯電話にはJ-Skyがある。「Jがつかないものは新しい日本ではない」と言わんばかりである。
こうなると気がかりなのが相撲だ。ハワイ、モンゴル、アルゼンチンと外国人力士は増える一方だ。いずれ日本人力士は少数派になるかもしれない。そのとき、「新しい日本人力士」たちが颯爽と登場するだろう。そしてマスコミは彼らを称えて呼ぶに違いない。
「J力士」
ラップを歌いそうである。耳にはピアスだ。手首にはバーコードのタトゥーさえあるではないか。だが相撲ならまだいい。仏教の世界はどうなるんだ。外国人の僧侶が増える。葬式では片言の日本語でお経をあげる。これではたまったものではない。「新たな日本」の復活を旗印に若い僧侶が台頭するだろう。
「J坊主」
J坊主はバイクだ。バイクに乗っているに違いない。それもハーレー・ダヴィッドソンだ。ハーレーのエンジンを轟かせて、湾岸道路をJ坊主たちが駆け抜ける。駆け抜けたいなら大いに駆け抜けるがいい。
いつの間ににこんなことになってしまったのか。だが「J」の流行はどうも胡散臭い気がしてならないのである。
(2002.3.4)