ダンテの『神曲』を読んでいた。
三部作の最初、「地獄編」の冒頭はこうだ。
人生の道の半ばで
正道を踏みはずした私が
目をさました時には暗い森の中にいた
ここでいう「人生の道の半ば」とは35歳である。ダンテは35歳を迎え、来し方を振り返り、己の悪徳を思い、「暗い森」すなわち生と死の隘路に迷い込む。古代の詩人ウェリギリウスが甦り、ダンテを地獄に案内してゆく。
一昨年35歳になった。その年精神病院に入院した。繰り返し読んだのがこの一節だった。
「人生の半ば」
気がつけば、もう人生の折り返し地点に来てしまった。なんだか背筋が寒くなった。
入院中にはほかの本も読んだ。スペインの戯曲家、カルデロンの『人生は夢』である。
「人生は夢に過ぎぬ」
またしてもはっとした。
「人生は夢」
夢ははかない。人生とは、夢のようにはかないものだ。
病気を患い、入院したせいで、わたしは初めて人生について真剣に考えた。人生は短い。やりたいことは山ほどあるが、いずれは死ぬのだ。どうせ死ぬなら、悔いのない人生を送りたいものである。
「悔いのない人生」
人はよくこう言う。だがいったいそれはどんな人生なのか。
「やりたいことをやる」
これだ。やりたいことである。考えてみた。やりたいことはなにか。
「牛乳を鼻から飲む」
やってみたい。一度でいいから、やってみたい。だが、牛乳を鼻から飲めば、悔いが残らない人生を送れるのだろうか。どうもちがうんじゃないか。鼻から牛乳ではだめだ。
「リス鍋を食う」
なんだよ、リス鍋って。リスを煮るのか。それを食うのか。リスなんか食いたくはない。
「濡れ手で粟をつかむ」
やってみたい。これはぜひともやってみたい。
「棒を投げる」
これはなんだ。棒である。しかも、投げる。意味がわからない。だが考えてみれば、わたしは生まれてこのかた「棒を投げる」ということをほとんどしたことがない。
「棒を投げない人生」
こう書いただけで、なんだか惨めな気持になるから不思議である。
「棒を投げてこその人生だぞ」
言われてみればそんな気がしてくる。
「棒だぞ。いいな、棒だ」
そうか。棒か。棒なのか。だが、家にはあいにく棒がない。これではわたしの人生は台無しである。いや待て。人生は「棒を投げる」ためにだけあるわけがない。そんな馬鹿な話があってたまるものか。考えよう。わたしがしたいことを、考えよう。
「今まで口にしたことのない言葉を口にする」
そうだよ。短い人生だ。一度でいいから口にしてみたい言葉ならたくさんある。
「しめしめ」
言ってみたい。「しめしめ」だ。今まで一度も言ったことがない。「しめしめ」と言える状況に出会ったことがないのだ。
「ウヒヒヒ」
ほくそえんでみたい。一度でいいから「ウヒヒヒ」とほくそえんでみたいものである。
「ぎゃふん」
言ってみたい。というより、「ぎゃふん」と言う人にお目にかかりたい。
人生は短すぎる。
(2002.2.12)