住んでいるマンションの敷地に自転車置き場があり、幼稚園児や小学生がいる家庭が多いので、おびただしい数の三輪車や自転車が所狭しと並んでいる。自転車の多くはマウンテンバイクで、大人でも乗ってみたいと思えるほどデザインが洗練されている。三輪車も昔とちがって車輪が太くてしっかりしており、「やってるな。三輪車業界も、しっかりやっているな」と大した意味もなく感心してしまうのだが、感心すると同時に、ある謎に気がついたのだった。
「真理ちゃん自転車」
あれはいったい何だったのか。七十年代だ。街には「真理ちゃん自転車」が溢れていた。人気絶頂の天地真理がシンデレラに扮してにっこり笑った顔写真が、チェーンのカバーにプリントされていた。キャラクター自転車というのは今でもあり、キティちゃんの絵が描かれたものや、ウルトラマン自転車も健在だが、実在の人物の顔がプリントされた自転車というものは今では見かけない。いくら「モーニング娘。」が人気だからといって「モー娘。自転車」は存在しない。
「真理ちゃん自転車」に乗っていた女の子たちは、どんな気持ちだったのだろうか。
「お出かけはいつも真理ちゃんと一緒」
中には思いも寄らぬ理由で乗っていた人がいたかもしれない。
「真理ちゃんにまたがりたくて」
だが謎は「真理ちゃん自転車」だけではない。
「ハンドルの先からぶら下がっている、ひらひらしたもの」
あれもさっぱりわからない。カラフルなビニールのひもである。たしかに流行していた。誰もが、ひらひらさせていた。わたしの自転車も、ひらひらしていた。だがわたしは、あれを「かっこいい」とか「おしゃれだ」と思っていた記憶がない。ただぼんやりと考えていた。
「ひらひらしているな」
なにせ、あの「ひらひら」は必ずついていたのである。選択の余地はなかった。自転車といえば「ひらひら」であり、「ひらひら」があってこその自転車だったのである。
「ひらひら的なるもの」
いつの時代にも「ひらひら的なるもの」がある。「ひらひら的なるもの」の前では、人はなす術がない。それはたとえばカバーではないか。
「ドアのノブ」
室内のドアのノブにカバーをつけることが一時期はやった。ドアだけではない。電話機と受話器にもカバーをかけたものだ。近頃はノブや電話のカバーはあまり見かけないが、「ひらひら的なるもの」は予想だにしないところに姿を現すから事態は深刻である。
「ティッシュの箱」
人はついカバーをかける。ティッシュの箱にカバーをかけるという行為に人を駆り立てるものとはいったい何か。「インテリア意識の高まり」だの「潔癖症という現代病」などといったところで何の説明にもならないに違いない。なにしろ相手は「ひらひら的なるもの」である。意味などないに決まっているのだ。
だからこそ、わたしは「ひらひら的なるもの」がリモコンを襲う日のことを恐れる。必ずどこかに行ってしまうテレビやビデオやエアコンのリモコンを、つい小粋な紐で結んでしまう日が来るかもしれないからである。
(2002.4.1)