『エル・スール』というスペイン映画が好きで、今までに何回観たかおぼえていないが、少なくみつもっても20回は下らないはずだ。どうしてそんなに観るのか、わからない。「観ないと殺す」と脅迫されたことはないし、ダイエットに効果がありますというわけでもない。観るたびに、いいなあとため息が出る。地平線につづく一本道。ロウソクのあかりで闇に浮かぶ少女の顔。夜の映画館の正面玄関。いいなあ。
主人公の少女が、ある場面で、遠方からたずねてきた父親の乳母に、こんなことをいう。
「花嫁ってみんなばかな顔してる」
状況を説明するとこうだ。翌日は少女の初聖体拝領の日である。初聖体拝領というのは、カトリック教会で信者がはじめて聖体を受ける儀式のことだ。聖体はパンで、キリストの体を象徴している。これを食べる。服装は白いドレス。あしたは花嫁みたいにきれいな服を着るんだよと乳母がいうと、少女は、「花嫁ってみんなばかな顔してる。嘘だと思ったら写真屋さんのウィンドーをみてよ」とこたえる。このセリフを聞くたびに、そうだよそうなんだよと、うなずかずにいられない。
ばかにみえるのはいやだ。誰だっていやに決まっている。だが、誰でもばかになってしまう装置というものがある。その代表がテレビではないか。
社会問題を朝まで議論する番組がある。その筋の専門家とか国会議員とかタレントが、朝までしゃべる。本人たちはまじめなつもりなのかもしれないが、どう考えてもばか丸出しである。
ばかがテレビに出るのではない。テレビに出るから、ばかになる。
「テレビになんか出ませんから大丈夫」などと考えている人がいたら、それはとんでもないまちがいである。人をばかに変える装置を「ばか装置」と呼ぶことにしよう。「ばか装置」は、日常の暮らしにひっそりと隠れている。
「バナナを持つ」
もうだめだ。バナナを持ったら、おしまいである。
私事で恐縮だが、主婦四人に家庭教師でスペイン語を教えていたことがある。一年間の授業が終わったのは夏のさかりのころで、「お礼です」といって花をプレゼントしてくれた。花束だったら問題はなかったのだが、なぜか鉢に植えられた一輪咲きのひまわりだった。それも小さなものではなく、一メートルくらいある。別れをつげて、ビニール袋に入れた鉢植えのひまわりをぶらさげて山手線に乗った。まわりの視線が気になる。そのとき思ったのだ。
「今わたしは『ばか』にみえているのではないか」
夜の山手線に男がひとり、ひまわりをぶらさげている。バラや百合ならいい。ひまわりでこその「ばか装置」だ。ひまわりをぶらさげてしまったら、もうとりかえしがつかない。
バス停。マンホールのふた。線路。手になにかを持つときは気をつけるべきだ。
(2003.1.1)