最近は活字離れなどというが、それでも本を読むのが好きな人はいる。本の虫と呼ばれる人だ。私は本の虫と言えるほど読んではいないが、商売柄、結構な量の本を読む。だがどうしたわけか、私は本をすらすらと読めない。何度もつっかえて、読み直す。なかなか最後のページまで辿りつかない。いつかすらすら読めるようになりたいと思っていた時、恰好の本に巡り会った。
加藤周一『読書術』(岩波同時代ライブラリー)
読書術。これだ。私が求めていたものはこれだ。読書をする上でのさまざまな知恵が披露されている。たとえば、本を読むのに机に向かう必要はなく、寝転んでもいいという。たしかに、寝転んで読む方がリラックスできそうな気がする。ほかにもいろいろと貴重なアドバイスがあるのだが、私は加藤周一が引用した、フランスの哲学者アランの言葉に心を奪われた。
「繰り返し読むことのできないような小説ならば、はじめから読む必要がない」
名作や古典と呼ばれる本は繰り返しの読書に耐える。何度も繰り返して読まれるからこそ名作であり古典である。だがよく考えてみると、アランの言葉はどうも奇妙だ。「はじめから読む必要がない」というが、繰り返し読むことができるかどうかは、まずその本を読まないと分からない。アランは哲学者だから、きっと、逆説や皮肉が込められているのだろう。だが私はアランの哲学に興味があるのではない。アランのように箴言めいた言葉を口にする人が問題だ。そういう人をこう名づけてみよう。
「アランな人」
アランな人は、意味がよく分からないことを平気で口にする。たとえばカボチャだ。
「繰り返し食べることことのできないようなカボチャならば、はじめから食べる必要がない」
繰り返し食べられるかどうかは、一度食べてみないと分からないじゃないか。だが「アランな人」は動じない。断言してはばからない。
「繰り返して結婚できない人ならば、はじめから結婚する必要がない」
なにを言い出すんだ。結婚は繰り返さなければならないのか。結婚式を挙げる。親戚や友人知人が祝福する。夫婦の暮らしが始まる。だが三日後にはすぐ離婚だ。そしてすかさず再婚する。式を挙げる。親戚や友人知人が祝福する。その翌日に離婚する。いったい彼らはなにをやっているんだ。結婚祝を贈るこっちの身にもなってもらいたい。だが彼らは意に介さず、ふたたび結婚相手を見つける。今度は式が終わって教会から出てきた途端に離婚だ。列席者のひとりが呟く。
「アランな人だからな。あの二人はアランな人だからな」
結局私は加藤周一の『読書術』からあまり多くを学ばなかった。だがひとつだけ勉強になったことがある。
「この世の中で読書にもっともふさわしい場所は、私の知るかぎり、外洋航路の船、それも客船よりは貨物船だと思います」
私は今貨物船を探している。
(2001.11.10)