ある晩、車を運転していたら、酔っぱらいが歩いていた。
千鳥足である。ネクタイがほどけ、ワイシャツの裾がズボンからはみ出している。みっともない姿だ。
わたしは下戸なので酒に関してはまるで無知である。酒の楽しさ、酒の怖さを知らない。種類を問わず、ひとくち口にするとたちまち気分が悪くなる。酒が飲めないことでずいぶん損をしてきたとつくづく思う。
気持ちよく酔っている人を見るのは楽しいものである。
「醺然(くんぜん)」
気持ちよく酒に酔っているさまだ。言葉の響きからして実にどうも心地よい。
「酔生夢死」
有意義なことを一つもせず、無駄に一生を終えるという意味である。だが酔って眠るように死ぬというイメージは、そう悪くはないのではないか。とくに大酒飲みは、酒で死ねれば本望と思っている人も少なくなかろう。
それにしても上で述べた千鳥足のサラリーマンはみっともなかった。酔っ払って正体がない。正体がなくなるほど酔っているさまを表す言葉はいくつかある。
「とっちり酔う」
聞き慣れないかもしれないが、たしかにこういう言葉がある。
「虎になる」
なぜか酔っぱらいのことを「虎」という。さらに酔っ払うと大虎である。ほかの動物ではだめだ。
「リスになる」
ちっとも酔っぱらっているさまが伝わらない。
「ぐでんぐでん」
だらしがない。なんてだらしがないんだ。ぐでんぐでん。言葉からして、なんだか腰砕けである。しゃきっとしてもらいたい。
「べろんべろん」
いやだ。べろんべろんな人はいやである。油断すると嘗められそうで気味が悪い。
「へべれけ」
いったいこの言葉はなんだ。へべれけ。よく考えると妙な言葉である。語源はなんだろう。
「ギリシャ神話」
なんと語源はギリシャ神話だという。
オリンポス山で神々にお酌をするヘベ(Hebe)という女神がいた。ヘベがお酌をする酒はあまりにも結構なものだというので、Hebe erryeke(ヘベ・エリュエケ=ヘベがお酌する)という言葉ができた。これが日本に伝わって「へべれけ」になったというのである。
女神ヘベとはいったい何者か。調べてみた。そして驚いた。
なんとギリシャ神話最高神ゼウスの娘である。そして夫は数々の怪物を倒したあの怪力無双の英雄ヘラクレスだ。
「父親がゼウスで夫がヘラクレス」
こんな女に酒を勧められて断れる者がいようか。なにしろ父は万物の創造主である。夫は古今並ぶものなき怪力の持ち主だ。サラリーマンは酒を勧められただろう。
「いえ、もう十分いただきました」
ヘラクレスが黙っているはずがない。
「おれの妻の酒が飲めぬと言うのか」
サラリーマンは半べそをかきながら飲む。飲み方がみみっちい。するとどうだ。
「ゼウスが怒りの雷を落とす」
天変地異である。あたりは阿鼻叫喚の地獄図絵だ。
へべれけのサラリーマン。わたしは考えを改めた。下戸でつくづくよかったと思う。
(2001.12.26)