真面目に生きていきたいと決心したのだった。
真面目に生きるにはどうすればよいのか。思案に暮れる。方法が思い浮かばない。決心した心は、はやく実行に移せとせっつく。ああでもない、こうでもないと逡巡したあげく、ようやく結論にたどりついた。
「名作を読む」
古典文学だ。古典とは、大勢の人が読みついできた、無限とも思われる読書に耐え抜いて生き残った作品である。名作には人生の深い薀蓄がこめられているにちがいない。名作は真面目な人生への導きとなろう。
本棚を眺めた。世界文学の名作がずらりと並んでいる。どれにするべきか悩む。だがぼやぼやしている暇はない。真面目に生きる決心をしたのだ。一刻も早く真面目に生きたい。この際どの作品でもかまわないだろう。私は目の前にあった本を手にとった。
フローベール『ボヴァリー夫人』(伊吹武彦訳)岩波文庫
なつかしい。最初に読んだのはいつだっただろうか。セルバンテスの『ドン・キホーテ』が近代文学の始まりならば、『ボヴァリー夫人』は現代文学の嚆矢である。すべての現代文学はここから始まったといっても過言ではない。表紙には「写実主義文学を確立した名作」と謳われている。きっとリアルに写実しているのだろう。
さっそく第一部を読んだ。
主人公のボヴァリー夫人の夫はシャルルという。医師である。シャルルは「ルオーじいさん」という老人の往診をしている。ルオーじいさんはシャルルを救いの神だと慕っている。ルオーじいさんには娘がいる。それを知ったボヴァリー夫人は嫉妬する。病気がほとんど治ったルオーじいさんへの往診を続けるのは、田舎くさい妻よりも町の娘に逢いたいからだと決めつける。そしてこう言う。
「ルオーじいさんの娘が町の娘ですって!ちゃんちゃらおかしい!」
私は驚いた。「ちゃんちゃらおかしい」。こんな言葉遣いをする妻がいるとは。そもそも出身はどこだ。なんだか江戸っ子みたいである。
先を読む。ルオーじいさんがシャルルを慰めている。
「私にもおぼえがありまさあ!」
ありまさあ、とは何事だ。登場人物はみなフランス人のはずである。だが「ありまさあ!」という。どうなっているのか。ルオーじいさんの慰めが続く。
「しかし、これが人の天命なんだから、お弱りになっちゃいけませんぜ」
今度は、いけませんぜ、ときた。なんだか江戸っ子である。しかも柄が悪い江戸っ子だ。
「娘がときどき先生のことを思い出してますぜ」
なぜ「ぜ」なのか。ルオーじいさんはなにかというと「ぜ」で締めくくる。私の脳裏にある言葉が浮かぶ。
「がらっぱち」
ルオーじいさんの言葉遣いをなんとかしてほしい。だがルオーじいさんは馬耳東風である。
「もうやがて春でさあ」
私は主人公のボヴァリー夫人のことが心配になった。彼女は大丈夫だろうか。ページを飛ばす。ボヴァリー夫人のセリフがある。
「でも、私、がちゃがちゃすることが面白いんです。じっとしていないのが好きなんですの」
真面目に生きるのは難しそうである。
(2001.11.22)