六年前のことだからずいぶん古い話になるが、ふと思い出したんだからしょうがない。
東京の語学学校でスペイン語を教えていた。
ある日、生徒たちに誘われてカザルスホールに行った。ジャズの小曽根真のコンサートだった。共演したのはピアノのフィル・マーコウィッツとテナー・サックスのデイヴ・リーヴマンである。ジャズに詳しい人なら知らない人はいないはずだ。とくにリーヴマンが登場したときは観客席がどよめいた。彼の生演奏は滅多に見られないのである。とても理知的な音を出す。小曽根とマーコウィッツとリーヴマンのジャムセッションはなかなかの聴き応えで、わたしは堪能した。
終演後、生徒のひとりの中年女性が、「知り合いが開いたばかりのお勧めの店があるんです」といって、恵比寿の住宅街にある料理屋に全員を招待してくれた。
料理は素晴らしかった。とりわけハマグリと長葱を煮た鍋は見事だった。おおぶりのハマグリを十人分の大きな鍋で煮る。なんて贅沢なんだ。ところがこれだけではない。食べ終わった鍋にはハマグリのだし汁が残っている。店長がそれにご飯とすりおろした長芋とショウガを入れ、溶き玉子を回し入れて刻みネギを散らす。雑炊である。
絶品というのはこういう料理をいうのだろう。とにかくうまい。すりおろした長芋を入れたことで雑炊は独特のとろみと粘り気がある。口に運ぶとハマグリの風味が口の中いっぱいに広がる。世の中にこんなにうまいものがあるのかと思うほどのおいしさだ。すりおろした長芋だ。雑炊にすりおろした長芋を入れる。これにはまいった。あんまりうまいので、「降参です」と心の中でつぶやいた。
至福の時が過ぎ、お茶を飲みながら生徒たちと談笑していると、テーブルに一枚の紙があることに気がついた。タイトルがある。
「店の掟」
なんだかわからないが、この店には掟があるらしい。目を通してみると四項目ある。最初はこうだ。
「知ったかぶりをしない」
いきなりなにごとだ。この店では、知ったかぶりをしてはいけないらしい。食通などが料理にうるさく注文をつけるのを嫌っているのかも知れない。次の項目を読んだ。
「有名人の自慢をしない」
有名人に会ったことを自慢したがる人はたしかにいる。だが、この店では、自慢してはいけないという。なぜだろう。
「有名人の自慢をする者に雑炊を食べる権利はない」
そうなのか。そういうことなのだろうか。幸いわたしたちは会食中に有名人の自慢話はしなかった。もししていたらどうなっただろう。
「表に放り出される」
恐ろしい。口は災いの元である。
そんなことはともかく、わたしが驚いたのは三番目の項目である。
「訳の分からないアクションはしない」
これはなにがどうなっているのか。「訳の分からないアクション」という言葉そのものが、わからない。どんな状況を指しているのだろう。
「逆立ちして念仏を唱える」
わけがわからない。なにしろ先立ちで念仏である。この店ではご法度だ。というより、どんな店でも迷惑がられるだろう。
最後の項目はこうである。
「小さな嘘はつかない」
大きな嘘ならかまわないのか。
「ブッシュの野郎にガツンと言ってやったぜ」
店の掟にはくれぐれも注意したいものである。
(2002.1.29)