不思議な気持ちにさせられるコマーシャルがある。たとえば、同じタレントの顔や体がいくつも画面に登場するコマーシャルだ。
何年も前のことだが、松平健が紳士服の店の宣伝をしていたことがある。北朝鮮のマスゲームのようにずらりと並んだおびただしい人数の松平健が元気よく行進していた。森高千里の顔が無数に空から降ってくるコマーシャルを見たこともある。最近は和田勉の顔がやっぱり無数に空から降っている。
企業がコマーシャルにタレントを登用したがる理由はわかるし、それをとがめるつもりもない。だが、それにしてもなぜ大量の複製なのか。
「たくさんいると、なんだか楽しい」
本当だろうか。少なくとも私は、大量の和田勉の顔を見てもちっとも楽しくはない。「なにもそこまで」と思うだけだ。
よくわからないコマーシャルはまだある。
「大勢の人が拍手する」
商品が映り、画面の人たちがいっせいに拍手する。画期的な商品だ。開発した企業が自画自賛したくなるのも無理はない。だが、なぜ拍手なのか。
ここで問題が浮かび上がる。
「拍手とはなにか」
大勢の人が手を打ち鳴らす。考えてみれば奇妙な振る舞いである。なぜ手なのか。
拍手が発明されるまで、人は賞賛の方法に悩んでいたのではないか。
誰かが見事な腕前で鹿を仕留める。あまりのあざやかさに、一族郎党は賞賛したくてうずうずする。だがその方法がわからない。最初は大声を上げたりして騒いでいただろうが、そのうち誰かが言ったのだ。
「頭だ」
人々は互いに頭をぶつけ合う。これはいくらなんでも痛いから、別の人が提案する。
「鼻はどうだ」
相手かまわず、鼻に鼻をくっつける。はじめのうちはこれでよかったはずだ。だが誰かがつぶやく。
「なんか、これ、だめなんじゃないか」
頭といい鼻といい、相手が必要だというのが不便である。ひとりで賞賛できる方が楽だ。
「足があるじゃないか」
人々は立ったまま足を何度もくっつけようとしたにちがいない。至難の業だ。そこでぴょんぴょん跳びはねながら足をくっつける。非常に疲れる。地面に座ってやってみたら少しは楽になったが、次第に腹筋が痛み出す。そして人々は気がついたのだ。
「もう手しかないな」
拍手が発明されるまで、このような暗黒の歴史がなかったとは誰にも断言できない。そしてついにブラウン管に拍手が満ち溢れることになったのだが、私は拍手ばかりするコマーシャルにはほとんど興味がないのである。
(2002.7.1)