会議について考えていたのだった。
勤め先で2週間にいちど、大きな会議と中くらいの会議と小さな会議がある。小さな会議は1時間くらいで終わるが、中くらいの会議はだいたい2時間、大きな会議になると最低3時間、長くなると5時間かかる。6時間かかったこともある。終わるころは日がとっぷりと暮れ、参加者はぐったりしている。死屍累々だ。そんなに時間をかけてなにが決まるかというと、「この件は次回の会議で継続審議する」ことだけだったりするから、死者は浮かばれない。2週間後にまた召集される。
会議とはいったいなんだろう。
公園のベンチでカップルが話し合っている。隣のベンチは年寄りがふたり世間話だ。その様子をみて、「お、やってるな会議」と思う人はいない。だからといって、会議はふたりではできないかというと、夫婦会議というものをひらく人がいるから、ことは複雑である。
夫婦なんだから「話し合い」でいいじゃないかと思うが、わざわざ「会議」と名乗る以上、「話し合い」にはない、なにかきっぱりとした意志、「きちんと決めるぞ」という意気込みが感じられる。その意気込みが端的にみられるのが、ふたりがいる場所と、振る舞いではないか。
ふたりきりになれるからといって、ホテルのラウンジで紅茶を飲みながらではきっとだめだ。観覧車もまずいだろうし、コーヒーカップでぐるぐる回りながら夫婦会議をする夫婦は、好きなだけ回っていろといいたい。夫婦会議は自宅だ。ただし、突っ立っていてはいけない。
「いいからちょっと座って」
妻がいう。夫がしぶしぶ腰をおろす。夫婦会議で重要なのは、「家にいること」と「座ること」だ。そして、たいていの会議も似たような条件がそろわなくては開けない仕組みになっている。ふたりで開く会議は夫婦くらいのもので、特殊なケースだ。ひとりではどうか。
「暇だから会議でもやるか」
たとえ議題がパレスチナ問題だとしても、これは断じて会議ではない。なにしろひとりでじっと考え込んでいるのだ。「少なくとも3人以上」が「決まった場所」で「座っている」のが会議だ。「5人が、港のみえる丘で仁王立ちし、口笛を吹きながら」では、会議にならない。会議になると、人は自然に会議室に行き、座る。この自然さは、じつはとても奇妙なことではないだろうか。
わたしは会議が苦手でしかたがないのだが、ひとつだけ、これはぜひとも出席したいという会議がある。問題棚上げ委員会だ。イギリス国営放送BBCの人気番組「モンティ・パイソン」のコントで、委員が重要案件をつぎつぎに棚上げしてゆく。その年に棚上げした議題の数を委員長が発表すると、委員会は拍手の渦だ。
問題棚上げ委員会に出席する準備なら、いつでもととのっている。
(2003.1.14)